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『LOST RAIN』(ショートショート)

 前ぶれもなく降り始めた突然の雷雨に、フロントウィンドウでせわしく動くワイパーも押され気味だ。こんなじれったい視界になるたびに、近ごろ達也(たつや)はこう思う。
 この20年落ちのくたびれたステーションワゴンにも、いい加減別れを告げないとな、と。
 ヘッドライトを点灯させ、車体を叩きつける雨音にかき消されぬよう、ラジオのボリュームを少しだけ上げた。と、そのとき、ふとある曲が達也の耳に入ってきた。
『最後の雨・中西保志』
 今から19年前。ドシャ降りのあの日も、達也はこのステーションワゴンを走らせ、そしてスピーカーからは今と同じく、透明感のある温かい歌声が流れていた。
 雨はなお一層強さを増し、すぐ近くで稲妻が奔った。
「…………」
 達也が何事か呟いた。人の名前のようだったが、激しく響く雷鳴にかき消され、声の形を成していなかった。
 達也の脳裏に、この車を買ってまだ間もなかったころのあの記憶が、よみがえってきた。

 その日も酷い雨だった。
 走行距離1万キロにも満たないステーションワゴンを繰り、達也は山道を下っている。
 カーステレオで大好きな曲を聴いているのに、ステアリングを握る達也の表情は曇っている。こんな道を通るんじゃなかったと、後悔しているのだ。
 この山道は、晴れた日でも視界が悪いことで有名だ。霧がよく出る。加えて、本日は雨。しかも土砂降りとあっては、視界は最悪で、前がほとんど見えない。
 それなのに、なぜ達也がこの道に来たのか。理由は簡単。買ってから一年経つこの車で、山道を走ってみたいと思ったからだ。
 それが失敗だった。晴れの日を狙って行ったのだが、山の天気は気紛れだ。ややもしないうちに豪雨となった。
 だが、後悔しても仕方ない。今達也が気にかけることは、とにかく安全に山を下りることだ。
 慎重にステアリングを繰る達也。道路の中央線を頼りに、ゆっくりと車を走らせる。
 突如、視線の先で白いなにかが動いた。雨で判然としないが、対象物は大きい。
「っ!」
 達也はブレーキを踏み込んだ。白い物体にぶつかる寸前で、車は急停止した。
 達也の全身にドッと汗が溢れる。遅れて心臓が肋骨を打ってきた。
 だが、達也に放心している余裕などない。こんな道のど真ん中で停車していたら、後続車に追突されてしまうかもしれないと思い、急いで車を路肩に移動させた。
 続いて、素早く車を降りた。現れた謎の物体のほうに、駆けていく。
「あっ……!」
 と声を上げてから、達也は息を呑んだ。
 『物体』ではなかった。白いなにかは、『少女』だったのだ。
 年齢は十歳前後、長い黒髪が特徴的な、可憐な少女だ。達也が白いと思ったのは、彼女が白っぽい花柄ワンピースを着ていたからだ。今は秋だというのに、そのワンピースは半袖で、明らかに夏物だった。
「…………送って」
 呆然としている達也に向かい、少女が言った。酷い雨音の中でも聞こえる、不思議で透き通った声だった。
 それでハッとした達也は、慌てて彼女を路肩に移動させた。その際に掴んだ彼女の手は、震え上がるほどに冷たかった。
 ひとまず、達也は彼女を助手席に乗せた。タオルを渡してやってから、問う。
「君は誰? どうしてこんな場所に立ってたんだ?」
「…………送って」
 達也の質問には答えず、少女は先刻と同じ台詞を口にした。
「送ってって……どこにだよ? 両親のとこか?」
 少女の濡れた黒髪が左右に揺れる。
「……違う」
「じゃあどこだよ?」
 少女は後ろを振り返り、これまで達也が来た道のほうを指差した。
「……山の頂上」

 達也は車を走らせている。山の麓ではなく、頂上に向かって、だ。
 結局、達也は謎の少女の頼みを承諾していた。そうさせる奇妙な力が、彼女にはあったのだ。
「ところで君、名前は?」
「……アミカ」
「アミカちゃんか。で、親はどこにいるんだ?」
「……遠いところ」
「遠いところ? それって車でどのくらい時間かかる?」
「……車じゃ行けない」
「……え? そんなに遠いの?」
「…………すごく……すごく遠いところ」
「じゃあ質問を変える。なんでアミカちゃんは、あんな場所に立ってたの?」
「……待ってた」
「待ってた? 誰を?」
「…………あなたみたいな人を」
 少女が自分に目を向けてきた時、達也はドキリとした。恐怖なのかなんなのかわからない感情が、一気に溢れた。
「そ、それはそうと、なんでアミカちゃんは頂上に行きたいの? やっぱりそこに両親が待ってるんじゃないの?」
「……違う」
「じゃあなぜ?」
「……行かなきゃいけないから」
 まるで答えになってない。達也は眉をしかめた。
「なんにしても、君の親って酷いね。小さな君をほったらかしてどこか行っちゃうなんて。勝手だね」
「……違う。勝手なのはアミカのほう」
「え? まさか……家出でもしたの?」
「……家出よりも、もっと酷いこと。アミカはもう……」
 そこでアミカは口を噤んだ。苦しそうな顔をしていた。
 それ以降、達也も口を開くことはしなかった。
 やがて車は、頂上と呼べる高さの場所まで来た。そこにはちょっとした休憩所があり、達也はその一角に車を停めた。
 目的地に着いたらアミカはすぐに降りるのかと思っていたが、達也の予想に反し、アミカは座っていた。
「この曲……ママとパパも好きだった」
「この曲? ああ、これね」
 いつの間にか、曲がリピートされていたようだ。
「……最後にもう一度、ママとパパに会いたかった」
 曲に紛れて聞こえた声は、震えていた。
「……最後? 最後ってどういう……」
 達也の言葉を遮り、アミカは車を降りた。雨に濡れながら、崖のほうに歩いていく。
「アミカちゃんっ?」
 焦って達也が追いかけると、アミカが達也に向かって言った。
「ありがとう。あなたのおかげでアミカは天国に行ける。ここからなら、すぐそこだから」
「…………天……国?」
「うん。アミカね、もう死んでるの。あなたに会ったあの場所で、車に轢かれたの」
「…………」
 達也は思い出した。夏頃、この付近の山道で少女が車に轢かれて死亡したというニュースを。
 夏頃。だからアミカの服は夏服だったのかと、達也は変なところで納得していた。
「あの時、アミカが勝手に車を降りなければ、ママとパパを悲しませることはなかったのに……」
 雨に濡れたアミカの横顔は、まるで涙を流しているみたいだった。
「……さよなら、親切なお兄さん」
 アミカは崖に飛び出した。
「アミっ……!」
 達也の声は途中で切れた。アミカが光となって消えたからだ。
「…………」
 未だに雨は、土の地面を静かに濡らし続けている。これがアミカにとっての最後の雨だ。
 開いたドアの隙間からは、お気に入りのあの曲も流れていた。

 回想から舞い戻った達也は、車を路肩で休ませ、ぼうっと助手席を眺めていた。スピーカーからはDJとゲストの他愛ない会話が流れていた。
 いつの間にか、ワイパーは乾いた音をたてながら苦しそうに動いていた。おかげで、達也の呟きは声の形になって落ちる。
「……アミカちゃん」
 あの日に会った少女、アミカ。彼女のことが忘れられなくて、達也はこのステーションワゴンに乗り続けているのだ。確かにあの時、アミカが乗った車だから。
「……もうしばらく頑張ってもらうとしますか」
 達也はそう呟きながら、ワイパースイッチをオフにし、アクセルをそっと踏み込んだ。
 雲間から覗く日の光は、あの時の光を彷彿とさせるかのようだった。

おわり
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