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『エレベーター狂詩曲(ラプソディー)』(小説)

エレベーターガール「いらっしゃいませ~、マンハッタンへようこそお越しくださいました。本日は私くし須藤が、当エレベーターの担当をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
ランチのため訪れた男性「随分丁寧ですね。ところでマンハッタンなんて店、このビルにありましたっけ?」

須藤「当エレベーターの名称でございます」
男性「ああそうなの、エレベーターに名前ついてるんだ」

須藤「もしよろしければ、お客様のお名前をお聞かせいただけますでしょうか?」



男性「えっ? 名前聞くの? 桑田です」

須藤「桑田です様ですね」

桑田「ですいらない! 桑田」

須藤「失礼いたしました。ですいらない桑田様ですね」

桑田「ですいらないはいらないっ!! 桑田だけでいいんだよ、桑田だけで!」

須藤「会話が進むにつれてどんどんお名前が長くなって。こんなお客様初めてです」

桑田「オマエ舐めてんのかっ! 俺の名前は、く・わ・た」



須藤「……??」

桑田「桑の実の桑に、田んぼの田」

須藤「苦しみの末に、自殺した」

桑田「そんなこと言ってねぇだろ! なんで俺がこの程度のやりとりで自殺すんだよ! そんなんじゃ命がいくつあっても足りねぇよ!」

須藤「残念ながら、お客様のお名前を把握することができませんでしたので、私くしのほうでニックネームを付けさせていただきます。ニックネームは『桑田』ということでよろしいでしょうか?」

桑田「最初からちゃんと俺の名前分かってたんじゃねぇか! オチョクッてんのかオマエッ!」



須藤「はい」

桑田「はいじゃねぇよ! なんだその『私くし接客のプロです』みてぇな顔しやがって! それよりもこのエレベーター、すげぇ豪華じゃん!」

須藤「桑田様、それではこれより、内装についてのご説明をさせていただきます。まずは桑田様にごゆっくりとおくつろぎいただけますよう、目の前にソファーがございます。その前にはテーブル、そしてテーブルの上には新聞、雑誌、テレビがございます。そちらご自由にご覧ください。ではどうぞソファーへおかけくださいませ」

桑田「いや別に座らなくても、すぐだから。10階お願いします。ファミレスの¥800の日替わりランチを食べにきたんですよ。ランチは¥900以内でって、女房からうるさく言われてて。もう金欠病だから」




須藤「申し訳ございません、10階到着まで30分少々かかりますので、どうぞおかけになって……」
桑田「いやいや、30分少々って……。あなたが10階のボタンをポチッと押せばすぐつくでしょ!」


須藤「…………」


桑田「…………ねえ、須藤さん?」




須藤「…………」




桑田「…………おいシカトかよ!」


須藤「はい!」
桑田「『はい!』て! 元気いいな! とにかく早くボタンを押してくれよっ!!」
須藤「桑田様、そんなに興奮なさいますと、またいつものように血圧が……」


桑田「またいつものようにって、俺とあなた、今日が初対面だから!今初めて会ってまだ1分ぐらいしか経ってないから! それに何で初対面のあなたが俺の血圧のこと知ってるの? 確かに俺、血圧高めだけど。それにメタボリックシンドロームで、毎朝のジョギングと、日曜日にはスポーツジムに通って……って何でこんなこといちいち初対面のあなたに話さなきゃなんないの?」




須藤「くだらない武勇伝はもうそのくらいにしていただいて、説明を続けさせていただきます。当エレベーターではドリンクの無料サービスがござい……」

桑田「おいちょっと待てっ! 武勇伝なんて一切語った覚えないんだけど。それに今‘くだらない’まで付けたよねぇ。‘くだらない武勇伝’って一体どういう……」

須藤「コーヒー、紅茶、ウーロン茶、オレンジジュースの中からお好きなものをお選びください」
桑田「おーい、須藤さんって人の話を聞かないタイプですかぁ~~?」
須藤「コーヒー、紅茶、ウーロン茶、オレンジジュースの中からお好きなものをお選びください」
桑田「分かりましたよ、選びゃいいんでしょ選びゃ。座らせてもらうとしますか。それじゃあコーヒーください」



須藤「ヒーヒー」

桑田「ヒーヒー?」

須藤「ヒーヒー」

桑田「突然なに言い出すの?」

須藤「いや、桑田様が『ヒーヒー言ってください』とおっしゃったものですから、ご要望にお答えして」

桑田「『ヒーヒー言ってください』なんて言ってねぇよ! あなたにヒーヒー言わせて俺は何が楽しいんだよ! だいたいそんなご要望にいちいちお答えしなくていいんだよ」



須藤「それならば、ヒーヒーフーー、ヒーヒーフーー。ではご一緒に」

須藤・桑田「ヒーヒーフーー、ヒーヒーフーー」

桑田「なんでラマーズ法なんだよ! しかも俺まで巻き込みやがって」

須藤「ヒーヒーでないとなるとあとは、ヒーヒーフーーぐらいしかないかなと」

桑田「なんかいつの間にかどんどん話が関係ない方向に行ってない? 俺はただ、『コーヒーください』って言ったの!」

須藤「えっ? なぜ突然こんな場所で『コーヒーください』なんておっしゃったのですか?」

桑田「はぁっ? あなたが好きなドリンク選べって言ったんだろっ! まるでこっちが頭おかしいみたいな言い方すんなよ! コーヒーだよコーヒー」



須藤「かしこまりました。コーヒーには、ホット、アイス、『熟成』とございますが?」
桑田「『熟成』っ? なにそれっ?」

須藤「淹れてから常温で1ヵ月間放置した、独特な香り漂う、こちらで一番人気のマンハッタンオリジナルコーヒーでございます!」
桑田「おいっ! 独特な香りってただカビ臭いだけじゃねぇか! 飲めるかそんなもんっ! なにが一番人気だよ!」

須藤「ありがとうございます。ではこちらの『熟成コーヒー』でございますね」



桑田「『熟成コーヒー』楽しみだなぁってちがうっ! 須藤さんおねがいしますよ~。もうわかった、じゃあホットコーヒーください」

須藤「『おっとどっこい』でございますね」

桑田「『おっとどっこい』なんて言ってねぇよ!」

須藤「『おっとどっこい』とは、相手の行動やことばなどに不満を感じて、それをさえぎる時に発することば。という意味でございます」

桑田「須藤さ~ん、俺がいつ『おっとどっこい』って言いましたか~~? ホットコーヒーだよホットコーヒー!! おかしいでしょ今ずっと飲み物の話してきたのに急に『おっとど……」

須藤「おっとどっこい!!」

桑田「えっ?今須藤さん、俺の話さえぎったよねぇ。要するにそれって、俺に不満を感じて……」

須藤「おっとどっこい!! 桑田様が、あくまでも私くしの聞き間違いであるということを、頑なに押し通されるのであれば、私くしにも私くしなりの考えがございます!」



桑田「チョッチョッチョッチョッチョッ! な、な、なんだよ、考えって?」

須藤「桑田様に、おいしいホットコーヒーを淹れて差し上げることでございます!」

桑田「おいっ! オチョクッてんのかオマエッ!! はじめっからちゃんとホットコーヒーって分かってたんじゃねぇか!」

須藤「おっとどっこい」

桑田「なにがおっとどっこいだよ!」



須藤「お待たせいたしました、ホットコーヒーでございます」

桑田「ありがとう、じゃあいただき……」

須藤「ああっ!」

桑田「どしたぁ!?」



須藤「お熱いので、くれぐれもやけどには十分ご注意……」

桑田「分かってますから、大丈夫。ではいただき……」

須藤「うわぁっ!」

桑田「どしたぁ!?」



須藤「コーヒーカップの取っ手は、足の指で持ったり、口でくわえたりしても、コーヒーをお飲みなるのは非常に困難ですから、くれぐれも手の人差し指で……」

桑田「おいっ! もうこうして人差し指で取っ手を持ってるんだよ! それを見ながら何であなたはワザワザそういうこと言う? コーヒーカップの持ち方なんていちいち言われなくても分かってるから! あぁんもう。いただき……」

須藤「ばぅわぁっ!」

桑田「どしたぁ!?」



須藤「今、桑田様が人差し指でお持ちになっているそのコーヒーカップを、もしも私くしが『エイヤッ!』とおもいっきりひねったら、桑田様の人差し指は見るも無残に骨折し、こぼれたアツアツのコーヒーで桑田様の太ももはこれでもかってほどにケロイドが残るくらいの大やけど。フォッフォッフォッフォッフォッ!」

桑田「なんなのその高笑い? あなただいたいこういう接客業しているわりには、随分と残酷なこと言うよねぇ。須藤さんってひょっとしてドSか?」

須藤「ふぅ~。桑田様のお話って、いつもそうやってゴチャゴチャとくだらないことばかり。離婚なさった理由も、これでよ~く分かりました」

桑田「おーーいっ!いつもって、俺とあなたは今日が初対面ってさっきも言ったろっ!! それに最初の『ランチは¥900以内でって、女房からうるさく言われてて』って話で、俺には連れ合いがいるって分かるだろ! 俺を勝手にバツイチにすんなよ! あぁん?」

須藤「『女房からうるさく言われてて』なんて、幸せだったあのころの思い出を語る桑田様の悲しげな表情は、なんとも切なすぎました」

桑田「幸せだったあのころじゃねぇよ! 今の話してんだよ! 今朝もまた『ランチは¥900以内よ』って言われて家を出てきたんだから」



須藤「えっ? 今朝もまた『ランチは¥900以内よ』って言われたことに腹を立て、ついには自暴自棄になって、家出をされたのですね」

桑田「家出じゃねぇよ! 家を出てきたって言っただけだろ!」

須藤「……??? 『家を出てきた』ということと、『家出』は一緒じゃありませんか?」

桑田「『家を出てきた』ってのはただ出かけたってことでまたその家に帰るんだけど、『家出』ってのはもうその家には……」

須藤「熱弁の最中まことに申し訳ございませんが、私くしには何をおっしゃっているのかさっぱり。とにかくここは桑田様の独演会場ではございませんので、そろそろコーヒーをお飲みになって……」

桑田「おいっ! あなたが俺に質問したから丁寧に答えてやってんのになんだその態度は! 訳分かんねぇ御託いろいろ並べ立てやがって。いいよいいよもう、コーヒー飲ませてもらうよ」



桑田「あぁ、やっと飲めた。おいしいこのコーヒー」

須藤「桑田様、さすがにお口が肥えてらっしゃる! 本場ブラジルの厳選された最高級豆を使ったコーヒー、いつも私くし休憩時間に飲んでおりますが」

桑田「関係ねぇじゃねぇか!」

須藤「こちらは賞味期限間近のため、スーパーで大特価だったコーヒーでございます」

桑田「ブフッ! こっちは安物のコーヒーかよっ!」
須藤「ああ、桑田様! 噴き出したコーヒーがお洋服に……」

桑田「大丈夫ですよこのぐらい、ちょっと付いただけだから」

須藤「コーヒーがもったいない……」

桑田「そっちかよ! この安物のコーヒーがそんなに大事かっ!」

須藤「命の次に大切なのがこの、スーパーで買った安物のコーヒーでございます」

桑田「あなた言ってることおかしいでしょ」

須藤「おかしいときはお腹の底からおもいっきり笑いましょう。せーの」

須藤・桑田「ワッハッハッハッハッ!」

桑田「…………?? バカにしてんのかっ!」











桑田「じゃあテレビでもみようかな、あれ? このテレビ、何も映んねぇぞ」

須藤「何をおっしゃいます? ちゃんと映っているではありませんか、砂嵐が」

桑田「そういうの映ってるって言わねぇだろっ! なんだよ、どのチャンネルも砂嵐状態じゃん」


須藤「憂さ晴らし状態ですか?」

桑田「憂さ晴らし状態ってなんだよ」

須藤「ちょうど今の私くしの状態ですね。ハッハッハッ!」

桑田「じゃあなんだ? ちょうど今の俺の状態は、憂さ晴らされ状態かっ! 接客しながらストレス解消してんじゃねぇぞコラッ! それよりテレビテレビ。このテレビみれないんだけど」



須藤「それでは桑田様、このテレビをじーっと見つめていてください」

桑田「このテレビをじーっと見つめてりゃいいわけね、分かった。……………………って、何なのこれ? 何も起きないよ」

須藤「ご満足いただけましたでしょうか?」

桑田「はぁっ?」

須藤「テレビ、みれましたよね」

桑田「テレビみれましたよねって、確かにテレビの本体そのものは今ずっとみてたけど」

須藤「ですからテレビ、みれましたよね」




桑田「須藤さん、そういうのテレビみれたって言わねんじゃねぇの?」

須藤「テレビの表側だけでは物足りないご様子。そういたしましたら今、テレビ本体をグルッと回しますので、テレビの裏側もじっくりとご覧になってください」

桑田「君舐めてんの? 俺は映像が映らない、砂嵐だっつってんの!」

須藤「ご満足いただけないようで。桑田様って、一体いつのころからそんなにわがままになられたのですか? 地平線の向こうに沈みゆく夕日を眺めながら、未来の夢と希望を熱く語っていたあのころの桑田様は、どこへ行ってしまったのでしょうか?」

桑田「なに言い出すんだよ! だから俺とあなたは今日が初対面だろって! テレビみようとして砂嵐状態なら、『テレビがみれないよ』くらい言うだろ普通」

須藤「実は~、どういうわけか今年の7月ごろからずっとこのような状態が続いておりまして……」

桑田「7月ごろからって、じゃあ今まで乗ってきた客達からも、たくさんあったろ? クレーム」

須藤「たくさんございますよ。ポーションタイプのものがこちらに……え~、200個ほど」

桑田「それはクリーム、俺が言ってんのはクレーム」

須藤「かしこまりました。200個すべてコーヒーに入れ終わるまで、しばらくお待ちください」

桑田「待てねぇよ! だいたい俺がいつポーション200個分のコーヒークリームをコーヒーに入れてくれって頼んだ?」

須藤「あ、100個でしたか?」

桑田「100個じゃねぇよ!」

須藤「50個ですか?」

桑田「50個でもねぇよ!」

須藤「50個100個ですね!!」

桑田「なんでそこでことわざみてぇになってんだよ!」

須藤「50個だろうと100個だろうと、味音痴の桑田様には分かるまいと」

桑田「バカにするのもいい加減にしろっ! だいたいそんなにたくさん入れたらコーヒーカップからクリームが溢れ出すじゃねぇか! そもそもいらねぇんだよクリームなんて。コーヒーはいつもブラックだから。それよりテレビだよテレビ。ずっと映らないってのは、もしかして地デジ対応にしてないってことなんじゃないの?」

須藤「桑田様、おっしゃっていることの意味が良く理解できませんが……」

桑田「理解できないって。地デジだよ地デジ! もう世の中とっくにアナログから地デジに変わってるんだよ!!」

須藤「そんなことより先日、‘痔で血’が出たお客様がおりまして、その白いソファーが鮮血で真っ赤に染まるという、とても微笑ましい出来事が……」

桑田「微笑ましいってどこがっ! てかそのソファーに今俺は座ってるわけ?」

須藤「どうぞご安心ください、私くしがそのソファーに座ることは決してございませんので」

桑田「どうぞご安心って、安心なのはあなただけでしょ! 須藤さんってそういうこと話すときだけ、腹立つくらいに満面の笑みだよねぇ」



須藤「ところで桑田様、私くしの記憶が確かならば、桑田様はこのビルへランチを召し上がりにいらっしゃったと? 一体いつまでこんなつまらないやりとりを続ければ気が済むのでしょうか?」

桑田「あぁん? あなたがそれを言うっ? 引き止めてるのはあなたでしょ! だったら早く出発してもらえませんか?」


須藤「…………」


桑田「…………ねえ、須藤さん?」


須藤「…………」


桑田「…………おいシカトかよ!」



須藤「はい!」
桑田「『はい!』て! 元気いいな! とにかく早くボタンを押してくれよっ!!」
須藤「桑田様、そんなに興奮なさいますと、またいつものように血圧が……」

桑田「またいつものようにって、俺とあなた、今日が初対面…… おぉいっ! この流れさっきと同じ繰り返し! また‘おっとどっこい’まで行くの? それとも‘痔で血’まで行くの?」
須藤「うふふふふ。なかなか面白いことをおっしゃいますねぇ。笑点でしたら座布団二枚ですよ。……持っていかれるほうですが」
桑田「スベりまくってんじゃん、俺!」


須藤「おっしゃる通りでございます」
桑田「そんなにはっきり肯定せんでも! って、いい加減ボタンを押してくださいよ!」

須藤「今ふと気づいたのですが、『ボタンを押して』というのが口癖のかたもなかなか珍しいですねぇ」

桑田「口癖じゃないよっ! 『お久しぶりです、ボタンを押して』とか『いい天気だなぁ、ボタンを押して』とか言うわけないじゃん。いつまで経ってもボタンを押してくれないあなたのせいで、こっちは何度も『ボタンを押して、ボタンを押して』って言うハメになってるんだろう!」
須藤「なるほどそういうことでしたか。しかし今ボタンを押すことは致しかねます。もしもエレベーターが揺れてコーヒーがこぼれますと、最悪の場合、命に関わるケースもございますので」
桑田「命に関わるっ? なんでっ? それにさっき噴き出しちゃったとき、なんにも起こらなかったけど?」


須藤「これからお話することは、一度も公になったことのない、最重要機密事項でございます」

桑田「えっ! 最重要機密事項!? なになに?」

須藤「これまで残念ながら、当エレベーター内ではすでに10人以上ものかたが、モニャモニャモニャモニャモニャ……」

桑田「ん? なにっ? 最後のほう良く聞こえなかったんだけど」

須藤「すでに10人以上ものかたが、モニャモニャモニャモニャモニャ……」

桑田「今ちゃんと耳を澄ませて聞いてたんだけど、須藤さん、ただ『モニャモニャモニャモニャモニャ』って言ってただけじゃん!」

須藤「ふぅ~、ご理解いただけないようですね、残念です」

桑田「え? おかしいでしょその言い方」



須藤「ここまでご説明しても分かっていただけないのなら仕方ありません。どうかこの用紙のいちばん下に、日付とサインをご記入願えますか?」

桑田「なにこの紙? なんか書いてあるじゃん。『先立つ不幸をお許しください。コーヒーだけには気をつけろ!(でも須藤さんは責めないでね)』なんだこれっ! 要するに遺書じゃねぇか、ふざけんなっ!」

須藤「これでようやくご理解いただけましたか、コーヒーを全て飲み終えていただくまで、申し訳ございませんが出発は控えさせていただきます」
桑田「……よく分かんねぇけど、まあいいや。はい、飲み終わったよ」

須藤「生み終わりましたか? 卵」

桑田「俺はニワトリかっ! 何で俺が卵生むんだよ! しかもこのエレベーターっていう密室の中で。飲み終わったっつってんだよ」


須藤「それでは大変お待たせいたしました。桑田様、本日はどのようなご用件でしょうか?」

桑田「えっ!? ご用件? 用件は~ つまりその~ 上の階へ行きたいなぁって。¥800の日替わりランチを早く食べたいなぁって」



須藤「…………」



桑田「須藤さん?どうしたの?」



須藤「シクシク シクシク」

桑田「なんなんだよいきなり泣き出したりして」

須藤「そうですか、桑田様はただ上の階へ行き、そして¥800の……¥800の日替わりランチを食べるためだけにこのマンハッタンにお乗りになった」

桑田「¥800のところだけわざわざデカイ声で2度も言わなくても」

須藤「そんな貴方にとって、私くしの存在って一体なんだったのでしょうか?」

桑田「なんだったのでしょうかって、ただのエレベーターガールでしょう」

須藤「そうですか、やっぱり……。桑田様は、子供の頃からいつもそうやって私くしのことを見下してこられた……」

桑田「だから俺とあなたは今日が初対面でしょってこれ言ったの何回目だよっ!」

須藤「そんな下手くそな慰めは、もういい加減聞き飽きました」

桑田「なにその、下手くそな慰め何度も何度も俺がしてきたみたいな言い方」



須藤「それでは気を取り直して。桑田様、何階をご希望でしょうか?」
桑田「だから初めに10階って言ったじゃん!」
須藤「出発前にご希望階をお聞きするのが、こちらのマニュアルとなっております。どうかご了承くださいませ」
桑田「めんどくせぇな!」
須藤「だまらっしゃいっ!」
桑田「だ、だまらっしゃいっ!? 急にどうしたっ?」
須藤「お客様に『めんどくせぇな!』と言われたら、『だまらっしゃい!』とお返しするのが、こちらのマニュアルとなっております。どうかご了承くださいませ」


桑田「絶対ウソだろ! どんなマニュアルだよ!」

須藤「桑田様限定、世界にたったひとつだけのオリジナルマニュアルでございます」

桑田「ウソつけっ! そんなマニュアルあるかっ! たのむ、もう早くボタンを押してくれ!」
須藤「ご自分でなさったらいかがですか?」
桑田「はぁっ? 何階をご希望ですかって聞いたの須藤さんでしょ!」

須藤「それはマニュアルに則って仕方なく……。しかしボタンを押すという行為までは、マニュアルに書かれておりませんので」

桑田「じゃああなたの存在意義は? あなたエレベーターガールじゃないんですか?」
須藤「違います。『エレベーターの妖精』です」
桑田「あなたが『だまらっしゃい』だわ!」
須藤「うふふふふ。なかなか面白いことをおっしゃいますねぇ。お笑い番組だったら笑いの渦が巻き起こっていますよ。……失笑ですが」
桑田「だだスベりじゃねぇか! それじゃあ自分でボタン押すから。須藤さんちょっとどいて」

須藤「ダメでございます!」

桑田「ダメでございますって、『ダメ』に『ございます』付けるか普通? で、あなたさっき、自分でなさったらって言ったじゃん! どけどけっ!」



桑田「イテテテテテテテッ!! ちょっ! なにすんだよっ!」

須藤「こう見えても私くし、柔道5段、空手8段でございます」

桑田「だからってなんでランチ食べに来た俺が、エレベーター内でこんな痛い目に遭わなきゃいけないんだよっ!」

須藤「さきほどすぐにボタンを押さなかった貴方が悪い。今はもう気が変わりましたでございます」

桑田「あなたもしかして、とにかく最後に『ございます』付けりゃ何言っても許されると思ってない?」

須藤「おっしゃる通りでございます」

桑田「おっしゃる通りでございますって、また『ございます』付けてるし」



須藤「ではこういたしましょう。桑田様が私くしを笑せることができたら、ボタンを押して差し上げます。ただし、10階に行きたいのでしたら、10点のギャグをやらなければいけません」
桑田「難っ!」
須藤「勘違いなさらないでください。100点満点中10点でございます」
桑田「ハードル低っ! 舐めんな! ……え~と、じゃあ『コンドルが尻にめりコンドル』! なんつって」


須藤「…………」


桑田「須藤さん?」



須藤「Zzzzzzzz…………」



桑田「……え? 須藤さん、もしかして立ったまま寝てる? このいちばん大事なときに。いや待てよ。そっか! 今こそ10階のボタンを押すチャンス!!」



桑田「イテテテテテテテッ!! なんだよ! 須藤さん起きてたのかよっ!」
須藤「人が寝ているスキをついてボタンを押そうなどという下等な行為、断じて許さん! この愚か者めがっ!!」
桑田「この愚か者めがって、オマエは丸川珠代議員か! だけど何で俺、こんなに怒られなきゃいけないんだ? 元はと言えば、仕事中に居眠りした須藤さんが悪いんじゃねぇの?」

須藤「何でしょうか? 『また痛い目に合わされたいよ』っておっしゃっているように、私くしには聞こえましたが」

桑田「いやいやいやいやいや、もう須藤さんの寝顔は最高に可愛らしいなって言いたかったんですよ」

須藤「そうですか、ではお言葉に甘えて。Zzzzzzzz…………」

桑田「おいっ! だからってまた寝ることはねぇじゃねぇか! あれ? 寝てると思ったらいつの間にか10階のボタンを押してくれてた。やっと押してくれましたね、須藤さん」


須藤「やはりその……面白くて……」
桑田「なぁんだ、さっきの『コンドルが……』ってギャグ、聞いてくれてたんだ」
須藤「いいえ、顔が面白くて」
桑田「顔がっ? 失礼かっ! 謝れっ!」
須藤「失礼いたしました」

桑田「なんか素直すぎて怖い」

須藤「今ごろになって顔の面白さに気づいたこと、心よりお詫び申し上げます」

桑田「やっぱりそういうオチがあったか」

須藤「桑田様、楽しい時間というのは、あっという間に過ぎ去ってしまうものですね」
桑田「なにが楽しい時間だよ! あなたひとりで俺をオチョクッて楽しんできただけじゃねぇか!」



須藤「ただいま当エレベーター、10階へ向けて上昇中でございます。桑田様、本日はマンハッタンにお乗りいただき、まことにありがとうございました。またのお越しをお待ち申し上げております。ここまで、私くし須藤が担当させていただきました」



須藤「間もなく10階に到着でございます。それでは桑田様、覚悟のほどはよろしいでしょうか?」

桑田「覚悟のほどってなんだよ! あぁ、これでようやく¥800の日替わりランチに有り付けるなぁ」


須藤「お待たせいたしました、10階に到着でございます。1階あたり¥10500×10階となりますので、本日のお会計¥105000になります」



THE END
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『声ガ聞コエル(後編)(負)』(小説)

 5
 昼休みが終わる直前になって、美愛ちゃんは帰ってきた。教室のドアが開く音がしたから確認したら、美愛ちゃんだったのだ。
 彼女の後ろから、数名の男子生徒が駆け込んできた。時間ギリギリまで遊んでいて、急いで来たのだろう。いかにも素行の悪そうな顔をした、五人組だった。正確な名前は知らない。
 って、そんなことはどうだっていい。今は美愛ちゃんだ。
 僕は美愛ちゃんを凝視することにした。彼女が自身の席に戻ってくる間も、視線は離さない。クラスメイトたちが『キモい』だなんだ騒いでいるが、ほとんど耳に入らなかった。
 美愛ちゃんが僕の横を通過した時、僕はハッとした。
 ……み、美愛ちゃん?
 美愛ちゃんは泣いていた。教室に来た時からうつむき気味だったから不思議には思っていたけど、まさか泣いていたなんて……。
 動揺が走った。
 ……どうすればいい? 僕は……どうすればいいんだろう?
 泣いているということは、なにか美愛ちゃんに悲しいことがあったんだ。それは間違いない。けど、僕になにができる?
 チャイムが鳴り、五限の授業が始まったが、僕はそれどころではなかった。後ろに座っている美愛ちゃんのことが気掛かりでしょうがない。
 意識は常に彼女に向けられている。
 すると、脳内に声が響いた。
『……助けて』
 美愛ちゃんの声だった。それも、苦しみを形にしたかのような、かすれた声だ。
「っ?」
 僕は思わず背後を振り返りそうになった。が、今そんなことをしたら目立ってしまうので、思いとどまった。
 代わりに、脳を激しく回転させる。
 ……今のは? 美愛ちゃんの心の声だよね? 聞き間違いじゃ……。
『……助けて』
 聞き間違いなんかじゃない。美愛ちゃんは確かに、心の声で助けを求めてる。
 そのSOSに気づけるのは、僕だけだ。僕だけが、彼女の本心を聞き取れるんだ。
 授業がなんだ。周りの目がなんだ。僕の美愛ちゃんが困ってるんだ。だったら……。
 意を決し、僕は美愛ちゃんのほうを向いた。一度唾を飲み込んでから、『……どうかしたの?』と、囁きかけた。
 美愛ちゃんは少し驚いた顔をした後、今度は自らの口で言った。
「……助けて」
「!」
 心臓が騒いでいる。緊張だか興奮だか恐怖だかわからない感情が、心臓を不規則に動かしている。
「どういうこと?」
「…………今、授業中だから、紙に書いて渡すね」
 美愛ちゃんは目元を拭い、そう言った。
「……わかった」
 僕は一旦、顔を前に戻した。後ろから、ペンを走らせている音が聞こえる。
 落ち着け、僕。冷静に状況を整理するんだ。
 美愛ちゃんが泣いている。四限までは普通だったから、昼休みになにかがあったんだ。なにか……泣くほど悲しいことが。
 怒りが込み上げた。僕の美愛ちゃんを悲しませたなにか、あるいは誰かに、憤る。
 よくも……よくも美愛ちゃんを……。
 拳を握り締めていたら、右肩を美愛ちゃんにつつかれた。どうやら紙を書き終えたらしい。
 僕はすぐさま振り返った。美愛ちゃんからルーズリーフの切れ端をもらい、そこに書かれたことを読んでいく。
 …………。
 絶句だった。
 そこには、あまりに衝撃的なことが書かれていた。
『わたし……襲われたの。』
 文面はそう書き出されていた。
 襲われた。
 襲われたのだ、美愛ちゃんは。昼休みに。体育倉庫で。服を脱がされた。が、その時はなんとかそこまでで済んだそうだ。
 誰に襲われた? 『あいつら』だ。
 『あの五人』だ。
 僕は教室内に視線を走らせた。先刻、美愛ちゃんと一緒に教室に入ってきた五人の男子生徒。彼らの顔を、順に眺めていく。いや、睨んでいく。
 こいつらが美愛ちゃんを襲ったのか。許せない。僕の美愛ちゃんを……僕の美愛ちゃんに、酷いことをしやがって。
 今にも五人に飛びかかりそうだった。やつら一人一人の喉を噛み切ってやりたい。目玉を抉り、踏みつぶしてやりたい。
 ガタッと小さな音がした。美愛ちゃんの椅子が揺れたのだ。そちらに目を向けると、美愛ちゃんが震えていた。やつらにやられたことを紙に書いたせいで、恐怖がよみがえったのかもしれない。
「大丈夫だよ」
 僕は美愛ちゃんに言葉を紡ぐ。
「僕が君を守るから」
 そう、僕が君を守ってあげるよ。必ず。
 今僕が『あの五人』になにもしないのは、この後にそのための舞台が用意されているからだ。美愛ちゃんからの手紙によると、彼女は放課後に、五人から呼び出されているらしい。『体育倉庫に来い。来ないとさらに酷いことをするぞ。』と。
 次に美愛ちゃんが五人に会った時、『服を脱がされる』では済まないはずだ。恐らく、それ以上のことが行われる。最低で最悪の行為が。
 だが、そんなこと僕がさせない。体育倉庫に集まったやつらは、僕が全員、この手で……。
 ガタッと、再び美愛ちゃんが震えた。目を見開き、固まっている。
「大丈夫だよ」
 もう一度告げ、僕は授業に戻った。頭の中では、どうやって五人に制裁を加えてやろうか考えたまま。

 6
 放課後。
 体育館に隣接された体育倉庫に、僕はいた。跳び箱の陰に隠れ、息を潜めている。HRを抜け出し、来たのだ。
 『やつらを待ち構えるために』。
 手には野球部の部室から拝借した金属バットを持っている。銀色のこの棒が、もうすぐ赤く染まるだろう。五種類の血液によって。
 しばらくして、美愛ちゃんがやって来た。首を配し、視線をさまよわせている。僕を探しているのだろう。
「ここにいるよ」
 僕はバットを持ち上げてみせた。それで美愛ちゃんは安心したらしく、頷いた。携帯電話を取り出し、画面を見ている。多分、時間を確認してるんだ。もうすぐやつらが指定した時間になるから。
 僕は両眼を研ぎ澄ます。餌の到来を待つ、獣のように。
 やがて、来た。
 やつらだ。体育倉庫の扉を開け、五人全員入ってくる。うち二人が、僕と同じように金属バットを持っていた。美愛ちゃんを脅すためだろう。どこまでも残忍なやつらだ。
 美愛ちゃんは後退していく。やつらから距離を置くようにしつつ……。
 僕のほうを指差してきた。
「?」
 どういう意味? 『飛び出せ』っていう合図かな?
 美愛ちゃんの奇妙な行動に戸惑っていたら、五人のうちの一人がこっちに駆けてきた。バットを持ったやつだ。鈍色のバットを振り上げている。
 え? どういうこ……。
 ゴッ。
 頭上で鈍い音がした。いや、頭の中で響いた。
 殴られたのだ。金属バットで。
 意識が朦朧とし、ぐらつく僕。埃臭い倉庫の床に、うつぶせに倒れた。
 ……あれ? これはどういうこと?
 痛む頭で必死に考えた。けど、現状を説明できる解は出なかった。
 誰かがこちらに近づいてくる。この細い脚は、美愛ちゃんだ。
 彼女はしゃがみ、僕の耳元に口を寄せてきた。
「声ガ聞コエル。声ガ聞コエル。声ガ聞コエル、心ノ声ガ」
「…………?」
 なにを言ってるかわからなかった。美愛ちゃんの冷たい声は続く。
「あんたさぁ、自分がテレパシーを使える人間だと思ってたの?」
 なんだ? 美愛ちゃんはなにを言ってるんだ? なんで僕がテレパシーを使えることを……。
「だから違うって。『テレパシーを使えるのはわたしだよ』」
「…………え?」
 一瞬だけ頭痛が消えた。その後は、先程よりも鋭い痛みが脳内を這いずり回る。
「あんたがわたしの心の声を聞いてたんじゃない。わたしがあんたに心の声を送っていただけ。それをあんたは、勝手に自分の能力だと思って勘違いしていただけ」
 …………嘘だ。
「嘘じゃないよ。わたしは……わたしのテレパシーは受信も発信もできる」
『こんなふうにね』
 頭の中に美愛ちゃんの声が響いた。痛みとともに脳を掻き混ぜる。
「あんたの勘違いは傑作だったよ。まさか自分に超能力があると思うなんてね。あんたみたいなクズに、そんな力があるわけないじゃん」
 …………これは嘘だ。美愛ちゃんがこんなことを言うはずない。偽者だ。
「だから嘘じゃないって。……ああ、あとその『美愛ちゃん』って呼び方やめてくれない? 反吐が出る」
 …………。
「……なん……で? なんで……こんなことを……?」
「あんたがキモいから。ただそれだけ。だから、みんなであんたをハメたわけ」
「……そっ……か……」
 なぁんだ。やっぱり僕に超能力なんてなかったんだ。美愛ちゃ……広瀬の声以外は、全部僕の妄想が生み出した声だったんだね。
「そうだよ。残念だったね」
 『あはははは』と広瀬は笑った。
 段々、全身の感覚がなくなってきた。手足が冷たくなってるみたいだ。寒い。頭痛はなくなってきたけど、代わりに寒い。
「それにしても、授業中のあんたの殺意には、さすがにわたしもびっくりしたよ。思わず震えちゃったし。大したもんだね、あんたの異常性は」
 あの時、広瀬が震えていたのはそういうことだったのか。……でも、そんなこともうどうだっていいや。眠くなってきたよ。
「あれ? もしかして死んじゃう? ……ま、いっか。血のついたバットをあんたに持たせておいて、自殺したことにしておけばいいよね。いじめられてたんだから、信憑性はあるし。それに、仮にわたしたちが捕まっても、わたしたち未成年だしね~」
 僕に超能力はなかった。でも、テレパシーなんていらないや。そんな力がなくても、相手の心の声が聞こえてるし。相手の口から。
 ……眠い。眠くてしょうがないや。
 広瀬がなにか喋ってる。楽しそうに。

 声ガ聞コエル。声ガ聞コエル。
 声ガ聞コエル、心ノ声ガ。
 声ガ聞コエル。声ガ聞コエル。
 声ガ聞コエル、心ノ声ガ。
 君ノ口カラ。

 でも、広瀬の声も徐々に聞こえなくなってきた。意識が遠くへ、遠くへ消えていく。
 僕は瞼を閉じた。

 声ハモウ聞コエナイ。

おわり

『声ガ聞コエル(後編)(正)』(小説)

 5
 昼休みが終わった。午後の授業が始まったが、一つ、異変が起きていた。僕にとっては大事件だ。
 美愛ちゃんがいないのである。五限の授業が始まっているってのに、後ろの席は空いたままだ。
 そのことについて生徒数名が騒いでいたが、五限の授業の教師は『サボりだろ』と相手にしなかった。あの美愛ちゃんがサボるわけないだろ。ろくでもない教師だな、おまえは。
 という怒りもそこそこに、僕は不安でいっぱいになった。美愛ちゃんになにかあったのだろうか? すごく心配だ。今まで、真面目な美愛ちゃんが授業に出ないことなんてなかったんだから。
 美愛ちゃん、美愛ちゃんっ。
 僕は強く念じた。美愛ちゃんの状況が知りたいと。美愛ちゃんの心の声が聞きたいと。
 …………。
 しかし、声は聞こえなかった。
 ……やっぱり無理か。遠くにいる人の声を聞けたことは、かつてなかったからな。
 美愛ちゃん! 美愛ちゃんっ!
 脳が熱くなってきた。鼻の奥もジンワリと熱を持ってきて、鼻血が出そうだ。
『…………けて』
「っ!」
 僕は限界まで両目を見開いた。
 聞こえた! 微かだけど、あれは美愛ちゃんの声だ!
 もっと集中だ。集中、集中。美愛ちゃんの声を聞くんだ。集中しろ、僕!
『……助けて。誰か……助けて……』
「っ!」
 もう限界だった。僕は教室を飛び出していた。後方から教師や誰かの怒声が聞こえたけど、無視する。美愛ちゃんの危機なんだ、授業なんか受けていられないよっ!
 廊下を走り、階段を駆け下りる。なぜだかわからないけど、僕には美愛ちゃんの居場所がわかった。きっと、彼女の心の声が電波みたいになって、僕に場所を教えてるんだ。
 僕は校舎を出た。体育館のほうに向かう。
『やめて! 助けて!』
 美愛ちゃんの声は大きくなっている。もうすぐ目的地に違いない。
 心の声を頼りに、僕はその場所にたどり着いた。体育館の横に隣接された体育倉庫である。きっとここに美愛ちゃんがいる。現実の声は聞こえないけど、中から微かに物音がするし。それになにより……、
『助けてっ! 誰かっ!』
 美愛ちゃんの心の声がはっきりと聞こえる。
 美愛ちゃん!
 僕は体育倉庫の扉に手を開けた。けど開かない。なにかでドアが固定されているようだ。横に滑らせれば簡単に開くはずなのに、ビクともしない。
『いやぁあああああ!』
 美愛ちゃんの悲鳴が、僕の脳を蹂躙した。
 ……ちくしょう。
「ちくしょぉぉぉおおおおおお!」
 僕は自分でも驚愕するような大声を出し、渾身の力でドアを引いた。
 一度大きな抵抗があってから、扉は開いた。すかさず、僕は倉庫内に転がり込む。
「美愛ちゃんっ!」
 視界に飛び込んできたのは、下着姿になった美愛ちゃんだった。そして、そんな美愛ちゃんに乗りかかろうとしている、あの国語教師だった。
 状況はすぐに把握できた。美愛ちゃんが襲われているのだ。口をガムテープで塞がれ、手をロープで縛られた状態で。
 僕の頭の中で、なにかが千切れた。
「……やめろ……」
 両の拳を握る。
「やめろぉぉぉおおおおおおおお!」
 駆け出した。固めた右拳を、教師めがけて突き出す。
 だが、あまりに大振りすぎたため、容易に躱されてしまった。僕はつんのめって転倒。並んでいたハードルをいくつも倒してしまう。
「邪魔するんじゃねぇ!」
 およそ教師の台詞とは思えない暴言を吐き、国語教師は僕に蹴りを繰り出してきた。ガタイが良いだけあって、鋭い蹴りだ。
 けれど、僕はそれを回避できた。理由は一つ。やつが蹴ってくることがわかったからだ。
 聞いたのだ、テレパシーで。やつの心の声を。
 その後の相手の猛攻を躱し、僕はカウンターパンチを繰り出した。相手の顎を打ち抜く。
 痛い。殴った手のほうがイカれそうだ。
 殴られた国語教師は、たたらを踏んでから仰向けに倒れた。気絶したのか、瞳は閉じている。
「美愛ちゃん!」
 僕はすぐさま美愛ちゃんに駆け寄った。ガムテープを優しくはがし、ロープをほどきにかかる。
「音倉くんっ? どうしてっ?」
 泣き腫らして赤い目の美愛ちゃんは、涙声で訊いてきた。僕はほどいたロープを投げ捨てながら、答える。
「君の……心の声が……聞こえたから」
「心の……声?」
 首をかしげる美愛ちゃん。その両瞳が、大きく見開かれた。
「音倉くん! 後ろっ!」
「……え?」
 振り返ろうとしたら、頭に鈍い痛みが走った。硬いなにかで叩かれたらしい。
 痛みに呻きながら顔を上げると、荒い息の国語教師が立っていた。両手にはハードルを抱えている。さっきはあれで殴られたのか。どうりで尋常じゃなく痛いわけだ。
 意識が朦朧としてきた。額から流れてくるのは血だろうか?
「よくもやってくれたな……音倉ぁ。くたばれ!」
 国語教師が凶器と化したハードルを振り下ろしてきた。
 おまえこそくたばれっ!
 テレパシーで相手の攻撃を読んだ僕は、ハードルを避け、右足を振り上げた。国語教師の股間を蹴り飛ばす。
「……うぎゅ……!」
 奇声を上げ、教師は倒れた。今度こそ完全に気を失ったようだ。泡を吹いてるし。
 それはいいけど、僕も倒れそうだよ。頭がズキズキするし、眩暈もする。
「音倉くん、あの……」
 両手で体を覆いながら、美愛ちゃんが歩み寄ってきた。
「ありがとう!」
 美愛ちゃんが長い髪を揺らして頭を下げた。
 そこまでは覚えてる。
 それ以降はどうなったのか、まったくわからない。
 僕の意識が飛んだからだ。

 6
 目覚めた時、僕は白いベッドの上にいた。病院だ。変態教師に殴られて気絶した後、病院に運ばれたらしい。ちなみに、個室だ。
 知らない間に日付が変わっていた。ほぼ丸一日経っているようで、もう夕方だ。外の景色から察するに、ここは学校近くの市民病院みたいだ。
 ベッドの横にメモが置いてあった。母親からだ。『無事でよかった』、『また来る』といったような内容のメモだった。
 どうやら僕は無事だったらしい。頭を殴られたから、命が危ないかと思ったよ。
 そんなことを考えていたら、女の看護師さんが部屋に入ってきた。僕が目覚めたことに気がつくと、一度退室。担当の医者を連れて、帰ってきた。
 医者は簡単な検査みたいなことをして、『もう大丈夫だよ』と言い、去っていった。看護師も『よかったね、近いうちには退院できるよ』と告げ、部屋を出ていった。
 それらの言葉を、僕は生返事をしながら聞いていた。他に気にかかることがあったからだ。
 聞こえないのだ、心の声が。
 あの医者の声も、看護師の声もまるで聞こえなかった。ましてや遠くの誰かの声なんて、さっぱりだ。
 どうしたんだろう? 脳にダメージを受けたせいで、テレパシーが使えなくなったのかな?
 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。要するにわからない。
 でも、僕はあまりショックを受けていなかった。あれだけ超能力を得たことを喜んでいたのに、不思議だった。むしろ、妙な達成感みたいなものさえある。
 それは恐らく、美愛ちゃんを助けることができたからだ。彼女が無事だったのなら、超能力の一つや二つ失っていい。そう思えた。
 彼女のことを思い出し、ついでに恥ずかしいこともよみがえってきた。そういえば、あの時、僕は彼女を終始『美愛ちゃん』って呼んでたっけ……。
 人知れず赤面していたら、病室のドアが静かに開いた。
「あっ、起きてたんだ。ご、ごめん……」
 入室するや否や謝ったのは、なんと美愛ちゃんだった。学校帰りらしく、制服姿だ。
「み……広瀬……」
 呆然とする僕に構わず、美愛ちゃんはベッド脇の椅子に座った。
「助けてくれてありがとう、音倉くん」
 前にも感謝されたはずだけど、美愛ちゃんはまたお礼を述べた。真剣な眼差しだった。瞳が夕日を受けてキラキラしていて、本当に綺麗だった。
 なにも反応できない僕。美愛ちゃんは話を続ける。
 それは、僕が気絶した以降の話だ。要約するとこういう内容になる。あの後、美愛ちゃんは職員室に行き、事件の顛末を先生方に知らせた。それで、救急車が僕を、パトカーが国語教師を連れていったというわけだ。事件以来、学校はちょっと騒がしいとのこと。
 説明が済むと、静寂が病室内を満たした。僕の高鳴る心音が美愛ちゃんに聞こえていそうで、余計に緊張した。
 やがて、『ところで』と美愛ちゃんが切り出した。
「音倉くん、わたしの心の声が聞こえたって言ってたでしょ? あれはどういう意味なの?」
「…………」
 僕はしばし考え、正直に答えることにした。美愛ちゃんなら、僕の話を信じてくれるだろう。だから、テレパシーのことを全て教えた。今はもうテレパシーが失われてしまっていることも。
「……そうなんだ。もう使えなくなっちゃったんだ、テレパシー。残念だね」
「……うん。まぁ、でも、いいんだ」
「どうして?」
 僕は頬を掻きつつ、言う。左にいる美愛ちゃんの顔は見れなかった。
「み……広瀬が無事なら、それでいいよ」
「…………」
 言ってしまってから後悔した。いじめられっ子のネクラが、なにをカッコつけてんだ、と思われたに違いない。顔面は前方に固定したまま、動けなくなった。
「……『美愛ちゃん』……でいいよ」
 風が吹けば消えてしまいそうな声が、聞こえた。
「…………え?」
 僕がついつい左を向いてしまうと、頬を赤く染めた美愛ちゃんの顔があった。
「『広瀬』じゃなくて、『美愛ちゃん』って呼んで?」
「…………」
 なにか色々言うべきことがあったはずだ。けど僕は混乱しまくっていて、結局こんなことしか言えなかった。
「……うん、わかった」
 外が夕焼けでよかった。僕の顔がトマトみたいに赤くなったのを、夕日のせいにできるからね。

 7
 翌日。
 あれ以後、僕の超能力は完全に失われた。テレパシーなんて最初っからなかったような気がして、あまり悲しくはなかった。
 夢でも見ていたみたいだ。
 もしかしたら本当に夢を見ていたのかもしれない。過去に頭を打って入院していて、長い夢の中にいたのかも。それで昨日やっと目覚めたんだ。
 そう考えれば辻褄が合う。だいたい、僕に超能力なんてあるわけないんだよなぁ。
 でも。
 やっぱり夢じゃないみたいだ。病室のドアが開いて制服姿の彼女が入ってきたから。
「光男くん」
 僕のことをそう呼ぶのは、美愛ちゃんだ。僕の愛する女の子だ。
 彼女はベッド脇の椅子に座り、今日学校であったことなどを話し始めた。
 僕は笑顔で、彼女の顔を見ていた。
 やっぱりテレパシーなんて必要ないじゃないか。美愛ちゃんの心の声は、美愛ちゃんの口から聞こえるんだから。

 声ガ聞コエル。声ガ聞コエル。
 声ガ聞コエル、心ノ声ガ。
 声ガ聞コエル。声ガ聞コエル。
 声ガ聞コエル、心ノ声ガ。
 君ノ口カラ。

おわり

『声ガ聞コエル(前編)』(小説)

 声ガ聞コエル。声ガ聞コエル。
 声ガ聞コエル、心ノ声ガ。
 声ガ聞コエル。声ガ聞コエル。
 声ガ聞コエル、心ノ声ガ。

 1
 僕は超能力者だ。ただし、念力とかテレポートとか、派手なことのできる超能力者じゃない。
 僕の使える能力は、テレパシー。他人の考えていることや感じていることがわかる能力だ。ちなみに受信専用で、こちらから発信することはできない。
 この力はつい最近目覚めた。生まれた頃からあったわけではない。高校二年生になった今、意図せずに手に入れたのだ。
 なぜ僕が、テレパシーが可能になったのか。なんとなく、自分なりの解答はある。
 人間は誰しも、優れた部分と劣った部分を持っている。頭は良いけど運動が苦手だったり、精悍な顔つきだけど性格が悪かったりね。
 僕の考えだと、そういった『優』や『劣』なんかの全ての能力を数値にして全部足し、その値を能力の数で割ると、みんな同じ数になると思うんだ。言い換えれば、全人類の能力値の総数は、等しいってわけ。100の力を、『頭の良さ』にいくつ、『運動神経』にいくつって分けてるんだ。
 そこで僕の話に戻る。
 僕は、得意なことがなにもない人間だ。勉強もダメ、スポーツもダメ。絵を描くのはちょっとだけ得意だけど、それだってノートの端に描く程度で、全然大したことない。
 人付き合いなんて一番苦手だ。だから、クラスでも友達が一人もいない。それどころか、いじめられている始末。悪口を言われたり仲間はずれにされたりするのは割と平気なんだけど、上履きを隠されたり、教科書や机に落書きされたりするのは困る。先生に落書きを怒られたりするしね。僕が書いたわけじゃないのに。周りのやつらはクスクス笑ってたっけ。
 それはともかく、僕は典型的なダメ人間なんだ。
 だから。
 だからさ。
 僕が超能力を手に入れたのは。
 他の様々な能力が一般人より圧倒的に劣っていたから、一つの能力が飛躍的に高まったんだ。それでテレパシーを使えるようになった。
「音倉(おとくら)」
 僕はこの境遇に満足している。いじめられるのは面倒だから嫌だけど、代わりに超能力が使用可能になるなら、いいってもんさ。相手の考えていることがわかるなんて、すごいと思わない?
「音倉っ」
 テレパシーは僕にぴったりの能力だよ。地味な僕に、派手な力は似合わない。それにテレパシーは、黙っていれば誰にもわからない能力だからいいよ。
 僕を蔑んできたやつらには、絶対に気づけない。僕が人類を超越した能力を持っていることに。
 テレパシーは僕だけに許された、僕だけの能力なんだ。
「音倉っ!」
「っ?」
 すぐ近くで聞こえた僕を呼ぶ大声に驚き、僕は椅子の上で跳ねた。窓の外に向けていた目を声のしたほうに移す。
 国語の教師が立っていた。それで思い出す。今は授業中なんだったっけ。登校してからずっと窓の外を眺めていたから、忘れていたよ。
 それにしても、ちょっと困った状況になった。この男性教師は口うるさいんだ。まるで体育教師みたいなガタイをしてるから、やたらと強気だしね。
「音倉光男(みつお)、おまえ、授業聞いてなかっただろ?」
「…………すみませんでした」
 言い訳したら余計に騒がれるから、正直に謝った。教師は『ちゃんと聞いてろよ』とか呟いている。
 聞いてるよ。
 と僕は言いたい。
 ちゃんと聞こえてるよ、あんたの声は。今、あんたは口に出さずとも、こう思ってるはずだ。
『愚図が。だからいじめられるんだよっ』
 聞こえてるよ。筒抜けさ。
 教師たちは、僕がいじめられてるのをちゃんと知っている。知っていてなお、無視を決め込んでいる。面倒事には首を突っ込みたくないんだね。ダメ教師の鑑ばかりだ。
 表面では『いじめはやめましょう』とか言ってる先生だって、内心では『めんどくさいなぁ』だもんね。笑えるよ、この学校は。いや、人ってやつはさ。
「おい音倉、なに笑ってるんだ? 先生を馬鹿にしてるのか?」
 はい、そうですよ。
 とは言えないので、「いえ、なんでもないです……」
 と答えておいた。
 クスクスと笑う声が聞こえた。クラスのあちこちから聞こえる。僕を嘲笑っているんだ。心の声を聞くまでなく、それはわかる。このクラスにおいて、ほとんどのやつが僕の敵だ。
「しっかりしろよ、音倉。じゃあ仕方ない、その後ろの広瀬(ひろせ)、ここの問題に答えてみろ」
 教師が僕の背後を顎でしゃくった。後ろの席から『はい』という澄んだ声が響いた。
 僕の胸はキュウッと締めつけられる。後ろの席の生徒は広瀬美愛(みあ)、容姿端麗、成績優秀の、クラスのヒロインだ。そして僕のお姫様だ。僕は彼女を愛している。心の底から。
 広瀬さん……いや、美愛ちゃんは、教師の出した問題に的確な解答を返した。
「よろしい」
 教師は満足そうに頷いた。それから、唇をベロリと舐めた。気持ち悪い男だ。
 そこでチャイムが鳴った。授業が終わったのだ。気づかぬうちに四限になっていたらしく、この後は昼休みだ。

 2
 休み時間でも、僕は自分の席を動かない。特にやることがないからだ。机の横にかけた学生鞄から、昼食のパンを取り出す。
 背後で、美愛ちゃんが立ち上がる音がした。仲の良い友達と一緒にお弁当を食べるのだろう。
 教室を出ようとしている彼女を、僕は視線で追った。後ろ姿だけでも、美愛ちゃんは可愛い。彼女を見るたびに、僕の胸はズキンと痛んだ。
 やがて、彼女が教室を出ていってしまった。まだ室内にいた国語教師も、教科書を脇に抱えて出ていった。
 僕は目線をずらす。美愛ちゃんがいないクラスなど、眺める価値がない。
 というわけで、再び外の景色に目を移した。
「……おいおい、さっきネクラが広瀬を舐めるように見てたぜ?」
「ああ、それ俺も見た。ネクラ、マジでキモいよな」
 教室のどこかで、誰かが僕の悪口を言っている。そういえば、僕のあだ名は『ネクラ』だ。まぁ、『音倉』は『ネクラ』とも読めるし、うまいあだ名かもね。
 男子学生二名の会話は続く。わざと僕に聞こえるように、やたらと大きな声だ。
「あいつ、広瀬のこと好きなのかね?」
「多分な。うわーキモい」
「つーかさ、闇男(やみお)が広瀬を好きとか、不釣り合いもいいとこじゃね?」
 新たな人物が会話に加わった。彼は僕のもう一つのあだ名、『闇男』を口にした。本名が『光男』で、僕が暗いという理由からあだ名は『闇男』。これまたおもしろいあだ名じゃない。こういうのって、最初は誰が考えるんだろうね?
「だよな。広瀬がネクラに興味持つわけないじゃん」
「そうだよ。だいたい広瀬は、なかなかにガードが硬いからな」
「そうそう。聞いた? この前の告白の話」
「聞いた聞いた。広瀬、あの八坂(やさか)の告白を断ったんだろ? すげーよな」
 『八坂』ってのはたしか、学年一のイケメンとか言われてる人だ。低能な女子がギャーギャー騒いでたから知ってる。
「まぁ八坂はさ、実はすごいエロいって話あるし、広瀬はそれを見透かしたのかもな」
「広瀬ってたまに鋭い時あるもんな」
「いやそういうことじゃないかもよ? 告白を断ったのは、単純に広瀬、他に誰か好きな人でもいるんじゃねぇの?」
「ああ、かもな。広瀬、いったい誰が好きなんだろうな?」
「俺だったりして」
「ばーか、それはねぇよ」
「だよな」
「当たり前だろ、あはははは!」
 くだらない。なんてくだらない会話をしてるんだろうね、彼らは。上辺では冗談を飛ばし合っているように見えるけど、内側ではすごい争いをしてるよね。『広瀬は俺のことが好きなんだよ』。『おまえみたいな不細工に広瀬が振り向くかよ』。『俺、広瀬と中学の時から友達だもんね。おまえらより一歩リードだぜ』。
 くだらない、くだらない。無意味な争いご苦労様。美愛ちゃんは、君たちの誰にも興味なんかないですよ。
 だって。
 だって『美愛ちゃんは僕のことが好きなんだから』。
「……っ……」
 考えたら、ついつい笑ってしまった。近くの女子たちが『やだ、キモーい』とか言っている。
 好きなだけ罵るがいいさ。そのキモい僕を、美愛ちゃんは好きなんだからさ。
 僕にはテレパシーがあるからわかるんだ。以前、美愛ちゃんの心の声を聞いたんだから間違いない。思えば、あの時にテレパシーが目覚めたんだ。

 3
 一週間前、放課後のことだ。美愛ちゃんは保健委員の仕事なのか、トイレットペーパーを両脇に抱えていた。トイレのペーパーを補充する途中だろう。まるで出来損ないのタワーのように、トイレットペーパーは積み上がっている。それを僕は少し離れた位置から見ていた。
 『落ちるな』と思ったら、やっぱりトイレットペーパーは散らばった。
 いつもならそんな出来事ほうっておいて、横を通過するんだけど、なぜだか僕はしゃがんでいた。美愛ちゃんの落としたトイレットペーパーを拾ってあげてたんだ。今思い返すと、やっぱり美愛ちゃんの顔が可愛かったから、似合わないことをしてしまったのかもしれない。
 美愛ちゃんは僕に気づくと、『音倉くんっ?』とちょっと驚いた声を出した。いじめられっ子の僕が今みたいなことをするとは、夢にも思ってなかったに違いない。
 その驚いた顔がまた可愛くて、僕は少し調子に乗ってしまう。
「……半分、持とうか?」
「え? いいの?」
 美愛ちゃんのクリクリした目が、見開かれた。
「いいよ」
 こうして、僕と美愛ちゃんは並んで歩くことになった。やがて目的のトイレまで着き、美愛ちゃんはトイレットペーパーの半分を女子トイレの中に置きにいった。
 それが終わった後、僕の手から残りのトイレットペーパーを受け取った美愛ちゃんは、男子トイレの前ではたと立ち止まる。どうやら、気まずくて入れないらしい。きっといつもは男子の保健委員がいるから、彼にやってもらっていたのだろう。今日は彼がいないので、美愛ちゃんは男子トイレの前で固まっていた。中から用を足した後の男子学生が出てきて、さらに硬直していた。
「僕がやってあげるよ」
 見ているのがあまりにかわいそうな照れっぷりだったため、僕は申し出た。彼女の手からトイレットペーパーを取り返し、男子トイレの中へ。さっさとペーパーの交換を済ませた。
「あ、ありがとう」
 少し頬を赤らめたまま、美愛ちゃんは言った。僕はそっぽを向きながら、
「いいよ、別に」
 と答えた。
 その後、沈黙が流れた。大抵のことには動じない僕だけど、この時だけはちょっと気まずかった。
 ややあってから、美愛ちゃんが口を開いた。
「音倉くんって、優しいんだね」
「…………」
 なんて応じていいかわからず、黙る。
「あ、あと、絵を描くのがうまいよね」
「…………なんで知ってるの?」
「えと……わたし、音倉くんの後ろの席だから、よく音倉くんがノートに絵を描いてるのが見えて……」
「……ああ、そういうこと」
「……うん、そうなの」
「…………」
「…………」
「…………」
 これ以上ここにいても気が疲れるだけなので、僕は帰ることにした。
「あ、じゃあね、音倉くん」
 背中に美愛ちゃんの声が届いた。振り返る僕。
「……っ!」
 その時だ。僕を見る美愛ちゃんの、心の声が聞こえた。
『音倉くんって話してみると良い人なんだな。それに、長い前髪だから気づかなかったけど、結構カッコいい顔してるかも』
 この時は、痛いくらいに心臓が肋骨を打っていたのを、今でも覚えている。
 それ以来、僕は彼女に夢中になった。
 過去を振り返ってみれば、美愛ちゃんが僕のいじめに荷担したことはなかった。僕が馬鹿にされているのを、他の女子が楽しそうに見ている時も、彼女は遠くから眺めていたっけ。僕を心配していたのかもしれない。
 そうか、そうだよ。彼女は僕の唯一の味方だったんだ、最初から。

 4
 回想から舞い戻った僕は、ゆっくりと振り返った。そこは美愛ちゃんの席だ。現在、彼女はいないけど、彼女の席を見るだけで、胸が熱くなってくる。
 周囲の男子たちが『ネクラが広瀬の机見てるぜ、キモ~』、とか騒いでいる。君たちは『キモい』しか言えないの? 語彙が貧困だね。
 まぁ、好きなだけ『キモい』、『キモい』と喚いていなよ。君たちが大好きな美愛ちゃんは、そんな僕のことが大好きなんだから。
 その後、再度外に視線を向ける僕。頭の中は美愛ちゃんのことでいっぱいだった。

『欲望の正体(後編)』(小説)

 4
 さすがに今回は警察が来た。衝真は、友達が死んだということで事情聴取を受けた。しかも、直前まで遊んだということでかなり詳しく話を聞かれた。
 それでも衝真が疑われることはなかった。人気のない場所を念入りに選んだ結果だろう。
 生徒が死んだせいで、学校は一日だけ休みになった。が、次の日になってしまえば普段通りに戻る。人が死ぬということは意外と軽いことなのだなと、衝真は思った。
 ……殺せ。……殺せ。
 声は未だ衝真の脳内に反響している。むしろ殺人を行う度にどんどん音量が上がってきていた。
 わかってる。また殺してやるよ。
 呟き、不敵に笑う。が、次の瞬間には真顔に戻る。
 ……けどな、次はどうすればいいんだ?
 衝真は悩む。単なる殺人には慣れてしまった。親しい者を殺すこともしてしまった。これ以上、殺人の快感を得る手段がないのだ。
 もっと親しいやつを殺せばいいのか? ……親か?
 首を振る。親はさすがにやばい。家族である自分がまず真っ先に疑われる。加えて、それ以前に荒山が死んだとあっては、ほぼ衝真が犯人と言っているようなものだ。
 というわけで、また衝真の殺人は壁に阻まれた。
 くそっ……。どうすればいい?
 唇を噛んだ。再び聞こえてくる例の声。
 ……殺せ。……殺せ。
 わかってる。
 ……殺せ。……殺せ。
 わかってんだよっ!
 雑音を掻き消すため、衝真は激しく首を振った。それで声は消えたが、いつまた騒がれるかわからないので、仏頂面は崩さない。
「あの……」
 近くで声がした。あの声とは違う、澄んだものだ。衝真は声のした方を向いた。
 湖原美登里がいた。眉間にしわを作り、衝真の顔を覗き込んでいる。どうやら衝真が気づかぬうちに、授業は終わっていたようだ。
「……狩木くん、大丈夫?」
 そんなことを言われ、衝真は目を丸くした。
 大丈夫? なにが?
 少し考え、美登里の言葉の意図がわかった。彼女は、友達を失った衝真を心配しているのだ。衝真が苦い顔をしているのを、友の死を嘆いていたと判断したのだろう。
 だが実際はまったく違う。衝真は死を嘆くどころか、次なる死をどうやって作るかを思案していたのだ。
「ああ……大丈夫だ」
 衝真は適当な反応をし、顔を逸らした。
 まだ美登里は離れない。
「でも……わたし狩木くんが心配だよ……」
 沈んだ声。それはいつも元気な湖原美登里の声とは到底思えないものだった。本当に自分を心配してくれていると、衝真は理解した。
「……大丈夫だって」
 顔を背けたまま、衝真は応えた。
 ……考え事をしてるんだ。話しかけないでくれ。もう少しで名案がひらめきそうなんだよ。
 しかし衝真の願いに反し、美登里は去らない。
「こんなこと言うのは失礼だけど……狩木くんが仲良かったのって、荒山くんだけだよね。だから、その友達を失った狩木くんが心配……」
 その通りだった。衝真には、友達と呼べる者はいても、学校の外で遊ぶほど親しいのは拓馬だけだった。だから衝真は拓馬を殺害することを決めたのだ。
 その一番自分に近しい存在はもういなくなった。だから衝真は次なる殺人に悩んでいるのだ。
 次の殺人を考え、衝真はまた嫌な気分になった。
 ……どうする? もう親しいやつなんていないぞ?
 そこで衝真にいい考えが浮かんだ。美登里の方を向くと、彼にしては優しそうに笑う。
「……いや、俺にはもう一人いるよ、仲のいい友達が」
「え? 誰?」
 小首を傾げる美登里を、衝真は指差した。
「それはおまえだよ、湖原」
「わ、わたしっ?」
 少し頬を紅潮させ、美登里は体を反らした。衝真は頷く。
「ああ。おまえはよく俺に話しかけてくれたよな? だから俺は勝手に友達だって思ってたんだが……ダメか?」
 美登里の目を見つめた。美登里は狼狽しつつも、視線だけは外さない。
「ダメなわけ……ないよ。そう。わたし達は友達だよ」
 美登里が照れたように笑った。衝真もわずかに口角をつり上げた。
「荒山は死んじゃったけど……俺にはまだおまえがいる」
「……か、狩木くん?」
 困惑した表情の美登里に、衝真は手を伸ばす。頬に触れた。
「荒山と最後に話をしたのは俺なんだ。その時、俺達はどんなことを話し合ったと思う? ……いや、俺は荒山に『誰との恋愛について相談した』と思う?」
「えっ? ……え?」
 混乱しっぱなしの美登里。目をパチクリし、頬を染め、両手をせわしく動かしている。
 衝真はその手を掴んだ。
「おまえだよ、湖原美登里。俺は、おまえと付き合うにはどうしたらいいかを、荒山に相談してたんだ」
「……そ、それは……どういう意味?」
 美登里は上目遣いに衝真を見てくる。
「俺は湖原美登里が好きってことだ」
「っ!」
 いつも輝いている美登里の瞳が、一層瞬いた。
「荒山が死んだばかりなのに、こんなこと言うのは変だよな。でもだからこそ、俺は自分の気持ちをおまえに伝えたい。荒山は俺を応援してくれたから、その気持ちに応えたいんだ」
「……か、狩木くん……。わたし……」
「……ダメか?」
 衝真はため息をつき、肩を落とした。
 ブンブンと首を振る美登里。
「ダメじゃない。ダメじゃないよ! わ、わたしも……」
 口を開いては閉じる。美登里はためらいを振り払うようにしてから、言う。
「わたしも狩木くんが……好き」
「え? ほんと?」
 顔を真っ赤にした美登里は、小さく頷いた。
「……そうか、よかった」
 安堵の息を吐く衝真。
「じゃあこれからよろしくな、湖原。……いや、美登里」
 呼び名が変わったことに驚いたのか、美登里は目を見開いた。それから、その目を優しく細める。
「うん、よろしく。衝真くん」
 こうして、衝真と美登里は付き合うことになった。衝真の申し出により、そのことは他の生徒には秘密だ。友を失った衝真がいきなり付き合うのは、彼らに反感を受けるというのが理由である。
 二人は学校ではただの友達を装い、外で遊んだ。そんな関係のまま、一週間が過ぎた。

 ある日の放課後。駅前で遊んだ衝真と美登里は、いつもの分かれ道にさしかかった。
「じゃあな」
 衝真が笑顔で手を振る。普段はこれで美登里は去っていくはずである。が、今夜、美登里は去らなかった。
「美登里? どうした?」
 衝真が尋ねても、美登里は黙っている。目線が定まっていないので、なにかを悩んでいるようだ。衝真はしばし待った。
「あのさ……わたしね、衝真くんともっと仲良くなりたいな」
 紡がれた美登里の言葉は小さい。
「どういうこと? 俺達は毎日仲良くなってきてない?」
 首を横に振る美登里。
「そういうことじゃないの。そうじゃなくて、もっと衝真くんと一緒にいたいってこと」
 ……ああ、そういうことか。
 衝真は美登里の言いたいことを正しく察する。美登里は今の、学校の外でしか会わない関係を嫌がっているのだ。普通の付き合いを解禁してもらいたいのだろう。
「……わかった」
 衝真は頷いた。美登里の瞳を見つめる。
「じゃあ今日はずっと美登里と一緒にいるよ」
 美登里の手を掴んだ。歩き出す。
「衝真くん、どこ行くの?」
「楽しいところ」
 振り向き、衝真は意味ありげに微笑んだ。また歩みを再開する。
 衝真の台詞からなにを思ったのか、美登里は頬を染めている。緊張したような表情になり、衝真の手を握り返した。

 やがて二人は薄暗い林に着いた。
「……ね、ねぇ衝真くん。どこに向かってるの?」
 辺りをキョロキョロしながら、美登里が言った。風で木の枝が揺れる度に、衝真に身を寄せている。
「…………」
 衝真はなにも答えない。どんどん林の奥に進んでいく。
 さすがに痺れを切らしたのか、美登里が衝真の手を払いのけた。
「いい加減にしてよ! どこに向かってるのって訊いてるじゃん!」
 衝真は美登里を横目に見て、肩をすくめた。
 ……この辺りでいいか。
 周囲を見渡す。黒い木々が衝真達を取り囲んでいた。当然のごとく他に人はいない。
「『どこに向かっているか?』、その答えはここだ。俺はこの林に来たかったんだ。いや、『人がいない場所』に来たかったんだ」
 暗闇でもわかるほど美登里の顔は青い。
「……な、なんで? なんでそんな場所に来たかったの……?」
 美登里と衝真の唇は震えている。美登里は恐怖で、衝真は歓喜で。
 ……殺せ。……殺せ。
 声は大きくなる。衝真が『殺人をしようとしている時』、声はやたらと騒ぐ。うるさくなる。
 衝真の口角がつり上がる。つり上がる。
「だって都合がいいだろ? 人がいない方がやりやすいんだよ。殺人がさ」
 台詞の最後、衝真は声を一層低くした。
「さ……殺人? 誰が……誰を?」
 美登里はまだ現実を受け入れられないようだった。それもそうだろうと衝真は思う。最近付き合った彼氏に殺されるなど、誰が想像しようか。
 だからこそおもしろい。楽しい。興奮する。
 裏切れたと思った時の相手の表情はたまらない。たまらなく衝真を刺激してくる。
 今も、悲哀か憤怒か嘆きか、美登里の顔は歪み切っている。涙は止まる気配がない。
 最高だ。最高に最高だ。
 衝真の全身の血がたぎる。熱湯のようになり、体中を駆け回る。
 衝真は、逃げる気力もない美登里の肩を掴む。指がくい込むくらいに強く握る。
「美登里は俺が好きなんだよな? だったら俺のために死んでくれ」
 弱々しく首を振る美登里。その頭を、衝真は両手で押さえつける。
「なぁ、死んでくれよ。そうすれば……」
 両手の位置が下がっていく。舐めるように美登里の頬を通過し、白い首についた。
「そうすれば、俺はもっとおまえを好きになれそうだ」
 衝真は美登里の首を絞めた。彼女が呻くことさえできない強さで絞める。首が折れそうなくらいに絞める。絞める。絞める。
 美登里が白目を向いた。綺麗な瞳は今や見えない。口からは泡を吹いている。花のような唇はみるみる色を失っている。
 絞殺は前にもやった。だが、今度は道具を使わない。衝真自身の手で人を殺すのだ。
 ……ああ。今までで一番楽しい。これが殺人か……。人の命を奪うっていうことか。
 衝真が恍惚の海にいる中、美登里の体がダランと垂れた。まるで今まさに重力が発生したかのように、その体は重い。
 ぐったりと倒れてくる美登里から、衝真は手を離した。ドスンと、美登里の体が大地に落ちる。その音さえ、衝真には感動的だった。
 美登里は死んだのだ。『美登里』から『美登里だったもの』に成り果てた。
 普通の人なら見るのも嫌な死体の顔。しかし、衝真はそれを視界に捉えて離さない。さながら絵画に陶酔する画家のように。
 だが、いつまでも眺めているわけにはいかない。警察が来る。捕まっては、殺人を犯すこともできなくなってしまう。それは避けたい事象だった。
 だから衝真は身を翻した。もう一度『美登里だったもの』に視線を送ってから、その場をあとにした。
 犯した罪は五つ。そして、それと同じ数の死体。
 気づけば、衝真は五人も殺害していたのだった。

 5
 学校は再び休みになった。連続で生徒が死んだとあって、今回は一週間も休校だった。
 衝真に相変わらず警察の手は伸びない。多少怪しまれているかもしれないが、証拠がない。丹念に殺害場所を選んだのと、美登里との交際を周囲に隠していたことが大きいようだ。
 学校が休みでも衝真には嬉しくない。別に学校が好きというわけではないが、休みでもすることがないのだ。
 そんなわけで、駅前をあてもなく歩いていた。
 ……殺せ。……殺せ。
 声は変化なく毎日聞こえる。日に日に大きくなってきている。
「……ああ、うるせぇ」
 呟いた。近くを歩いていた一人がこちらを向くが、すぐに逸らす。
 ……殺せ。……殺せ。
 そんなこと……わかってるよ。
 衝真だって殺人はしたい。しかし、さすがに手詰まりだった。もう殺す相手がいないのだ。
 他人、友人、恋人と来たら、次は両親くらいしか対象がいない。が、それだけは回避したかった。衝真逮捕の証拠を欲しがっている警察に、みすみすその機会を与えてしまうようなものだ。
 さてどうしようか、と思案がてら歩いているのが、現在の状況だった。
 もう無理だな……。
 これから殺人はできそうにない。そう衝真は薄々予感していた。ここまでなのだという思いが頭を埋める。
 だが、衝真の欲望は収まらない。それどころか、どんどん強くなってきている。五人も殺したにもかかわらず満足せず、さらなる生け贄を欲しがっている。
 それに連れて、脳内に反響する声も大きくなった。
 ……殺せ。……殺せ。
 うるせぇ……うるせぇ!
 頭が割れそうだった。衝真は休むため、家に帰ることにした。

 帰宅し、自室に籠る。親の顔を見てしまうと殺してしまいそうだった。
 ベッドに横になる。頭痛は軽くなったが、声は相変わらず響いている。
 ……誰を殺せってんだ? あ?
 質問してみるも、当然脳内の声は答えない。壊れたオーディオプレーヤーのように、同じ台詞を繰り返している。
 衝真は眠りに落ちた。そうしていないと気が狂いそうだったから。

 そんな調子で何日かが過ぎた。
 ……殺せ。……殺せ。
 お馴染みの声は、恐ろしく大きな音を奏でていた。衝真は頭痛で死んでしまいそうだった。
 いや、誰かを殺してしまいそうだった。この痛みを抑えるために、誰でもいいからバラバラにしてしまいたい。
 だが、『誰でも』ではダメだという確信に近い思いがある。『快感を得られる殺人を』。衝真の直感はそう告げている。
 もうどうすることもできない。衝真は悩んだ。答えは見つからない。頭痛はひどくなる。
 衝真は寝込んでしまった。毎日毎日、毛布にくるまっていた。
 ……殺せ。……殺せ。
 大きくなる声。そのうちに、その声に雑音のようなものが混ざり始めた。
 ……殺せ。……殺せ。
 『殺せ』の前に、なにか言っている。はっきりとは聞こえないが、確かになにか言っている。
 声が大きくなると、ぼやけたその輪郭もはっきりとしてくる。
 衝真は意識を集中した。
 ……を殺せ。……殺せ。
 『を殺せ』? 誰かを殺せってことか?
 さらに意識を研ぎ澄ます。声はだんだんはっきりしてくる。
 ……を殺せ。……を殺せ。
 だから誰なんだよっ? 早く名前を教えやがれ!
 胸中で喚いた。言われた名前の人物を殺せばこの声は止まる。衝真はそう考えたのだ。
 ピンポーン。
 衝真の考えが正解だとでも言うように、そんな音がした。脳内にではない。自宅に、だ。
 誰かが訪ねてきたのだろう。一階で母親が応対しているのがわかる。
 騒がしい声を聞くのをやめ、神経を階下に向ける。
 まもなく母の声が聞こえた。
「えっ? 刑事さんっ?」
 衝真はベッドから跳ね起きた。床に耳を当てて、さらに詳しく聞く。
「狩木衝真くんはいますか?」
 男の声が聞こえた。全身が震える。汗が一気に溢れた。
 刑事が俺に用? まさか……殺人がバレた?
 首を振る。
 いや、そんなことはない。計画は完ぺきだった。落ち着け。
 しかし、次なる刑事の言葉で、衝真は絶句した。
「狩木衝真くんに殺人容疑がかかっています」
 眩暈がした。気を失いそうだったがなんとか堪える。
「衝真くんが、被害者の湖原美登里さんと付き合っていたという情報を入手しました。そこから彼を調べ直し、怪しい点が明らかになってきたのです」
 舌打ちし、顔を歪めた。
 甘かった。美登里は衝真とのことを話してしまっていたのだ。おそらく親しい友人にだけには話していたのだろう。
 目の前が真っ暗になった。床に横たわる。
 意識が階下の会話から離れていく。しばらく母親と刑事が言い争っているのが聞こえたが、それもやがて遠いものへと変わる。
 ……殺せ。……殺せ。
 再び聞こえ始める欲望の声。
 ……を殺せ。か……を殺せ。
 浮かび上がってくる言葉。
 か……まを殺せ。か……き……まを殺せ。
 やがて、言葉は完全に姿を現した。
 かりきしょうまを殺せ。かりきしょうまを殺せ。
 ぼやけていた衝真の意識がはっきりとした。
 かりきしょうま? 『狩木衝真』っ?
 起き上がる。思考に集中する。
 なんで俺が俺を殺せなんだ? 自殺しろってことか?
 解答はすぐに出た。
 ……ああそうか。『自殺』。それが俺に残された『快感を得られる唯一の殺人』なんだ。
 素敵な答えだと思えた。自分に一番近いのは自分。そいつを殺せば、最高の快感を得られることは間違いない。
 衝真は立ち上がる。机に向かい、引き出しから果物ナイフを取り出した。女子高生を殺した時のやつだ。
 誰かが階段を上がってくる音が聞こえる。
 衝真は刃を自分の胸に向け、構えた。
 部屋のドアが開く。二人のガタイのいい刑事が現れた。
 だが、もう遅い。衝真はナイフで自らの心臓を貫いていた。
 痛みはなかった。代わりに、快感があった。興奮が、歓喜があった。
 血が溢れる。真っ赤な血が滝のように流れ出る。
 気持ちいい。気持ちいい。気持ちいい。
 殺すのが気持ちいい。死ぬのが気持ちいい。
「……ああ……最高だ……」
 それが衝真の最期の言葉だった。恍惚の表情を浮かべたまま、衝真は絶命した。

 6
 誰にもわからない事実がある。
 それは衝真の中にあった欲望の正体だ。
 『狩木衝真を殺せ』。衝真はあの声の意味を履き違えていた。あれは『快感を得られるのは自殺しかないから、狩木衝真を殺せ』という意味ではない。
 では、どういう意味なのか?
 狩木衝真は生まれつきどうしようもない殺人衝動を持っている。それを抑制しようとしていたのがあの声だったのだ。
 あの声は最初から言っていた。『狩木衝真を殺せ』と。止まらない衝真の殺人願望を抑えるために、逆にその衝動を利用して衝真を自殺させようとしていたのだ。
 それは、やはり殺人はダメだという、衝真の中に微かに残っていた意志の表れだったのかもしれない。
 しかし、衝真はその真意に気づかなかった。それどころか勘違いし、皮肉にも殺人を実行してしまった。
 それでも、衝真は結果的に自殺まで行き着いた。それは正しいルートではなかったが、ゴールは間違っていなかった。
 それが今連続殺人の顛末だった。
 しかしこの真実は誰にもわからない。唯一わかるチャンスがあった狩木衝真は死んだのだから。
 そう。
 この真実は誰にもわからない。

おわり

『欲望の正体(前編)』(小説)


 青年は殺人犯だった。
 それも連続殺人犯。いや、今まさにそうなろうとしている。
 もう少し、もう少しだ。
 青年、狩木衝真(かりきしょうま)は緊張と興奮で高鳴る胸を押さえた。心臓が胸板を突き上げ、掌を打ちつけてくる。
 あの角を曲がったら……殺(や)ろう。
 闇夜の中、衝真の両眼がギラリと光った。
 視線の先には一人の女の子がいた。背丈や制服を着ていることから察するに高校生だろう。長い髪を揺らしながら、衝真の数メートル先を歩いている。
 彼女に後ろを気にしている様子はない。衝真は歩く速度を上げた。徐々に距離を縮めていく。
 足の裏がアスファルトを打つ度、動悸が激しくなる。心地よい興奮に、全身が支配される。
 衝真は制服の内ポケットに手を入れた。中に入っているのは、鞘付きの果物ナイフ。
 それを取り出し、手の中でもてあそびながら、さらに足を速める。
 ついに女子高生との距離が一メートルを切った。衝真のすぐ近くに女の子の小柄な体躯がある。
 ……殺せ。……殺せ。
 いつものように衝真の脳内に声が響く。
 ……殺せ。……殺せ。
 衝真は女の子に襲いかかった。
「誰っ?」
 ようやく背後の人物に気づいたようで、女の子が振り返った。だが、その時にはもう遅い。彼女の腹にはナイフが突き刺さっていた。
「ぁ……」
 恐怖なのか悲哀なのか、女の子の顔が歪んだ。自分のお腹から飛び出ている異物を見て、悲鳴を上げた。
 やがて倒れる女の子。もう喋らない。動かない。死んだのだ。
 衝真の全身が熱くなった。衝真は得も言われぬ快感を手にした。
「ああ……」
 歓喜と興奮が血液とともに衝真を駆け回り、蹂躙する。衝真は叫び出したいのを必死に堪えた。
 これだ……。この感じだ……。
 手が震える。口をだらしなくあけてしまう。
 女の子を見下ろす。いや、『女の子だったもの』を観察する。
 開いたうつろな目。青白く変色した肌。赤い海に沈むそれは、衝真をどうしようもなく刺激した。
 ずっと眺めていたいと衝真は思った。死は美しい。
 しかし、その願いはどうやら叶わない。周辺の家々が騒ぎ始めたからだ。女の子が悲鳴を上げたのがまずかったのだろう。警察が来るのは時間の問題だ。
 名残惜しそうに死体を見てから、衝真は身を翻した。指紋つきのナイフを回収することを忘れない。
 くそっ……。もっと見ていたかったのに……。
 全力疾走しながら、胸中で毒づく。
 悲鳴のせいだよな……。
 だからといって、衝真は悲鳴を止めようとは思わない。断末魔も快感を得るために必要なものだからだ。
 殺人現場からある程度離れたところで、衝真は足を止めた。怪しまれないために、ここからは逆にゆっくり歩く。
 笑みを堪えるのに必死だった。女の子を刺した際の感触が、まだ手に残っている。
 路地に入り、ナイフを取り出す。赤く染まった刃を見つめると、高揚感に包まれた。
 衝動的にナイフを舐める。甘い。血の味は思った以上に甘かった。
 遠くで響くサイレンの音に、衝真はハッとする。ナイフをしまい、歩みを再開した。
 冬の夜。辺りは突き刺すような寒さがある。が、衝真の体は熱を帯びていた。汗すらかいているほどだ。
 ……やっぱり最高だ。人を殺すのは……最高だ。
 大声で笑ってしまいたかった。
 人を殺した青年は歩いていく。闇の中を、口元を曲げたまま進んでいく。
 ……殺せ。……殺せ。
 声がまた聞こえる。
 凍てつく夜が、更けていった。

 2
 狩木衝真は生まれつき殺人衝動を持っている。命を奪うということに快感を見出している。
 ただ楽しいから殺すだけ。衝真の殺人にそれ以外の理由はない。
 そのため、昨夜の女子高生にも特別な思い入れはない。殺しやすそうだったから殺した。それだけだ。
 衝真が人を殺したのは昨夜ので二度目だ。一回目の人も同じように夜道で襲った。ただし、その時に用いたのは道端に落ちていた石だ。
 目の前に容易に殺害できそうな女性がいたので、殺人衝動を押さえ切れず、勢いで殺した。『殺せ』という毎日頭に響く声が、一際でかくなったのもその原因だ。
 その時に、衝真はたとえようもない快感を得た。今までは世間の目、倫理観、道徳などがあり、殺人衝動を抑えていたが、そのタガがそこで外れてしまった。
 偶然にもその事件に目撃者はおらず、衝真はなんの罪にもとわれていない。だから、衝真はまた人を殺そうと思った。
 計画的に殺人をしたのは昨夜が初めてだった。と言っても、計画したのは人通りのあまりない夜道で、誰でもいいから殺そう程度のものだ。あとは『殺せ』という声や、衝動に任せて動いた。
 そんなずさんな計画にもかかわらず、あの事件にも目撃者はいなかった。それにより、衝真は無事に、本日もこうして学校の授業を受けている。
 なんの取り柄もない普通高校。そこに衝真は通っていた。親しい友達はほとんどおらず、静かな学園生活を送っている。
 授業中、衝真はもちろん勉強などしていない。頭の中にあるのは、殺人のことだけだ。
 今日はどこで殺すか……。同じ場所はまずいよな。
 衝真にとって『誰を殺すか』は問題ではない。『どこなら殺せるか』が大事なのだ。
 さすがに警察も連続殺人で騒いでるし。隣町にでも行ってみるか。
 さっそく次はどうやって人を殺めるかを思案する。
 撲殺、刺殺ときたら次は……。
 適当に視線をさまよわせていたら、制服のネクタイに焦点があった。
 絞殺だ。
 ひらめき、衝真は笑みをこぼす。と言っても心の中でだけだが。
 首を絞めた時、相手がどんな顔をするのか。衝真は思い浮かべただけで胸をとかめかせる。
 きっと最高なんだろうな。
 ゾクゾクした。体の芯からなにかが湧き上がってくる。
 そうだ。絞殺にしよう。隣町で、今日実行しよう。
 友達と遊ぶ予定でもたてるみたいに、衝真は殺人を計画した。
 ……殺せ。……殺せ。
 脳内の声が、少しだこ大きくなったような気がした。

 放課後。数少ない友達からの誘いを断り、衝真は一人で帰った。
 実際には帰るのではない。殺人をするのにいい場所を探しにいくのだ。
 また人を殺せることが嬉しくて、衝真は駆ける。予定よりも随分早い時間に隣町に着いてしまった。
 町を適当に歩いていく。細い路地や、街灯の少ない場所など、とにかく人がいないところを歩いた。
 町の中心から離れた場所にある寂れた公園。衝真はそこを殺人現場にすることに決めた。
 街灯はほとんどない。人も、ベンチに座ってしばらく観察してみたが、三時間に二人しか通らなかった。
 ベンチに座り、次はどんなやつを殺せるのかなどと考えていると、いつの間にか辺りは薄暗くなっていた。
 そろそろか。
 衝真の両眼が、殺人犯のそれに変わった。血走り、瞳の奥は闇よりも深い。
 ……殺せ。……殺せ。
 声の音量が上がる。連れて、衝真の心臓も暴れ始める。
 早く、早く来い。
 衝真は、次に来るやつを殺そうと決めていた。
 あらかじめ買っておいたロープを袋から取り出した。さすがに自分のネクタイだと足がつくと思い、買っておいたものだ。カモフラージュのため、ロープを買う時に他の工具なども買っており、準備は万端だ。
 衝真はロープを引っ張ったり、緩めたりしてみる。これで人の首を絞めると思うと、どんどん興奮してきた。
 太陽が沈んだ。周囲は完全な闇に包まれる。
 視界があまり鮮明でない。衝真は耳を澄ませる。
 しばらくして、足音のようなものが聞こえた。まだ遠いが、確実にこちらに近づいてきている。
 衝真は唾を飲んだ。唇をベロリと舐める。
 そして公園に人が入ってきた。男性だ。おそらく仕事帰りなのだろう、スーツ姿だ。
 公園を横切ろうとする男性。急いでいるようで、早足だ。
 衝真は立ち上がった。ロープを後ろ手に隠し、男性に近寄っていく。
 ……殺せ。……殺せ。
 脳内の声がいつにも増して騒がしくなった。
 そして、衝真はその男性を殺害した。

 3
 実行した場所がよかったらしく、今回も捜査の手が衝真に伸びることはなかった。翌日も衝真は平凡な日常を送っている。
 昼休み。衝真は屋上に来ていた。柵に両腕を乗せ、鉛色の街を眺めている。
 衝真の表情は暗い。
 ……ああ、なんでだよ。くそっ……。
 ため息を吐く。
 なんで……そんなに興奮しなかったんだよ!
 柵を蹴りつけた。少し離れた位置で弁当を食べていた数名の生徒が、ビクッと体を震わせた。
 衝真は嘆いていた。昨夜の殺人が、自分が想像していたより楽しくなかったからだ。興奮も快感も今までの半分ほどしかなかった。
「……なんでだよ」
 呟き、しばし理由を考えてみる。
 やがて、解答は出た。
 衝真が三回目の殺人で快感を得なかった理由、それは『慣れ』だ。
 人を殺すということは大変なことだ。どんなに悪いやつだって殺人をすれば、動揺したり恐れたり後悔したりする。だが、何人も殺していけば、いつかそんなことになんの反応も示さなくなるだろう。兵士がためらわず人を殺すようになるのと一緒だ。
 衝真に起きた現象も、それと同じことだった。つまり、殺人に慣れてしまった。それにより快感や興奮が半減してしまったのだ。
 ……だったら、これからどうする?
 衝真は頭をひねった。殺人に慣れてしまっても、人を殺したいという衝動は常にある。例の声も毎日聞こえる。
 二人殺すか? ……ダメだな。きっと数は問題じゃない。
 衝真の殺人は行き詰まった。
「おい狩木、なに黄昏てんだよ」
 背中を叩かれ、衝真が振り向くと、そこには衝真のクラスメイト、荒山拓馬(あらやまたくま)がいた。彼は衝真が仲良くしている数少ない友達だ。たまたま席が近かったのをきっかけに仲良くなった。
「……別に。黄昏てなんてねぇよ」
 衝真は柵から手を離し、拓馬の肩を軽く叩いた。
「ふ~ん、難しい顔してたけどな」
「……そうか?」
「俺はてっきり湖原美登里(こはらみどり)のことを考えてるのかと思った」
「……なわけねぇだろ」
 湖原美登里とは、あまり社交的ではない衝真に、結構頻繁に話しかけてくる女子だ。顔は中の上くらいで、元気な娘。クラスでは結構人気がある。
「おいおい、今少し間があったぞ?」
 拓馬はからかうように、衝真の横腹に肘を突っ込んだ。
「ない。興味もない」
 実際衝真は湖原美登里に興味がない。というか恋愛自体に関心がない。衝真が好きなものは殺人だけだ。
「ほんとかぁ?」
「ほんとだ」
「でも湖原の方はおまえに気があると思うぜ?」
「…………あっそ」
 これで話は終わりだとばかりに、衝真は屋上の出口まで向かう。
 くだらない。殺人衝動がある俺に、恋愛なんて必要ない。どうせそいつだっていつか殺すんだからな。
 これまでは殺人衝動があったのにそれを果たせなかったが、一度殺人をしたことで衝真の枷は外れている。もう誰でも殺していいのだという思いが、衝真には生まれていた。
 ……ん? どうせそいつも殺す?
 そこまで思い、衝真は足を止めた。『照れんなよ~』とか言っている拓馬に振り返る。
「なぁ、荒山、一つ訊いていいか?」
「ん? 改まってなに?」
「おまえは……俺の友達だよな?」
 沈黙。拓馬の頭に『?』が出た。彼はしばらく考える素振りを見せてから、『あ!』と叫んだ。
「……ま、まさか狩木……おまえ俺に興味が?」
 イラっときたので、衝真は拓馬の頭を叩いた。
「なわけねぇだろ! 気持ち悪いこと言うな!」
 たじろぐ拓馬。
「だ、だってよ……じゃあなんだっていきなり友達確認なんてするんだ?」
 目を鋭くしていた衝真は、そこでニヤリと笑う。
「……別に。ただの確認だ」
「……そ、そうなのか?」
「そうに決まってる。おまえには特別な感情なんてこれっぽっちも持ち合わせてない」
「これっぽっちは持ち合わせろよ! 友達だろうが!」
 騒ぐ拓馬を眺め、衝真は一言。
「そうか、友達か」
 そして今度こそ屋上をあとにした。
「狩木、意味わかんねぇぞ!」
 背後で拓馬の怒鳴り声が聞こえるが、衝真は無視した。階段を下りていく。
「……そうか、友達か」
 もう一度呟いた時の衝真の表情は、殺人をした際のものと同じだった。

 授業が終わってから、衝真は拓馬を誘って駅前に行った。二人で街をぶらつき、それなりに楽しい時間を過ごした。
 辺りはもう暗い。衝真達は寒さが一段と加速したように思えた。
「さて、そろそろ俺は帰ろうかな」
 背伸びをしながら拓馬が言った。衝真はその肩を掴む。
「まぁ待てよ。おまえに相談したいことがあるんだ」
「……あ? 相談?」
 そこで、拓馬の顔が暗闇でもわかるほど青くなった。唇を震わせ、後退していく。
「お……おまえやっぱり俺に気が……」
 衝真は、拓馬の腹を軽く蹴った。
「だから違うっての! 相談ってのはその……」
 頬を掻く衝真。
「湖原美登里のことなんだが……」
 拓馬の目がキラリと輝いた。さっき蹴られた恨みも忘れたようで、衝真の肩に手を置く。
「そうか! おまえに一足早い春が来たか! よしよし、おじさんが相談になってやる」
 予想通りの拓馬の反応に苦笑しつつ、衝真は口を開く。
「じゃあこんなところで話すのもなんだから、場所を移すか」
「え? 別にここでも……」
「まぁいいから、行くぞ」
 衝真は拓馬の背中を押していった。
 着いたのは小高い丘の上。春にはこの高台にある桜を見に、多くの人が来るが、今は冬なので衝真達の他には誰もいない。二人は数あるベンチの一つに腰かけた。
「で、結局おまえは湖原が好きなの嫌いなの?」
 拓馬が話を切り出した。衝真は曖昧に頷く。
「よくわからんが……嫌いではない……かな?」
「ふむふむ。つまり好きだということだな」
 拓馬は腕を組み、うんうんと納得している。
「いや、なんでそうなんだよ……」
「嫌いじゃなければ好きってことだ。当たり前だろう」
「……そうなのか?」
「そうとも。だってよ、考えてもみろ? おまえが今まで女子に興味を示したことがあったか? ないよな? だからこれは恋なんだよ!」
 自分のことのように鼻息荒く、拓馬は続ける。
「おまえは自分に好意を持つ娘が現れて戸惑った。やがて戸惑いつつも、その娘に恋をした。そして今度は恋に戸惑っている。ようはそういうことだ!」
 拓馬にビシッと指差される衝真。まるで自分は探偵に正体を暴かれた犯人だな、と思った。
 ……犯人……か。
 衝真は俯いた。拓馬に気づかれないように口元を曲げる。
 当たってるよ、荒山。俺は犯人だ。殺人犯だ。
 立ち上がる。高台の先端まで移動した。
 拓馬もついてくる。
「まぁ安心しろよ、恋に困惑するおまえを、俺が導いてやるよ。俺、おまえの友達だしな」
 笑い声を上げ、拓馬は衝真の肩に手を置いた。
「……そうだよな、友達だよな」
 衝真を体の向きを変えた。拓馬に相対する。
「じゃあお願いするよ」
「任せとけ! ……ってやけに素直だな? 言っとくけど俺にもそんなに恋愛経験ないからな。期待すんなよ」
 照れたように頭を掻き、拓馬がそっぽを向いた。
「……ああいや、お願いするのは『そっち』じゃないんだ」
「あ?」
 再び衝真を見る拓馬。目を見開き、停止する。
 衝真は口の端を限界までつり上げていた。両眼を闇夜でもギラつかせ、拓馬に近づく。
「お願いっていうのはだな、死んでくれってことなんだ」
 こともなげに衝真は告げた。ヒュッと息を吸う拓馬の両肩を、しっかりと掴む。
 ……殺せ。……殺せ。
「いや……少し言い間違えた。『死んでくれ』じゃない。『俺に殺されてくれ』」
「…………は? おまえさっきからなんのじょ……」
 台詞は最後まで言うことができなかった。拓馬は衝真に突き飛ばされ、高台から転げ落ちた。
 高台は途中まで急な坂だが、その後はコンクリートで固められた絶壁になっている。落ちたらまず助からない。
 衝真はドンと、遠くで響いたのを聞いた。それは、彼にとっては最高の音楽だった。
 ……ああ、最高だ。
 今回の殺人は特別だった。知人を、しかも友達を殺したのだ。その行為に『慣れ』はない。それ故、衝真は新鮮な快感を味わうことができた。
 全身が震える。衝真は恍惚感に包まれた。
 これで衝真が殺したのは、四人。

『偽り』(小説)

 1
 一城希美(いちじょうのぞみ)は殺人事件が好きだった。
 と言っても、現実での話ではない。物語の中で、だ。
 大多数の人と同じく、現実で起きている殺人には希美だって嫌悪感を覚える。殺人事件なんてなくなればいいと考えている。むしろ一般の人よりもその思いは強いかもしれない。
 しかし、それ故、希美は物語内での殺人が好きなのだ。何人死のうが、それは架空の物語だから、と割り切ることができる。
 殺人を楽しむ上で、希美が好むのは小説だ。何故なら、小説は偽りのリアリティを味わうことができる。頭の片隅では『こんなことは現実にない』と思いながら、作られた現実を楽しむのが希美は好きなのだ。
 そんなわけで、本日も希美は読書に明け暮れていた。
 昼休み。多くの生徒が騒ぐ教室で、希美はページをめくる。
 おもしろい……。
 希美は口元を緩めた。
 今日読んでいる本も、もちろん殺人事件を扱ったものだ。論理的な推理が展開される、本格ミステリだ。
 こんなオチだったなんて……。
 最後まで読み終わり、本を閉じる希美。本を抱くように胸に当て、瞳を輝かせる。まるで恋する乙女のようだ。
 周りの生徒達がそんな希美を見て、気味悪そうに顔を歪めた。
 希美に友達はいない。いつも本ばかり読んでいて、誰とも話さないからだ。必然、友達などできようはずがなかった。
 それでもいい、と希美は考える。その方が静かに読書できるとさえ思っていた。
 友達なんていらない。現実なんてつまらない。
 希美は現実が嫌いだった。現実には物語のような刺激がない。あっても気分を害すようなものばかり。
 笑い合っている生徒達を見た。
 なにがそんなに楽しいんだろう?
 理解できない。現実で笑顔になる瞬間など、希美にとっては本を読んでいる時しかないのだ。
 教室の喧騒から目を逸らし、窓の外へと視線を移した。
 あぁ、もう一つあるな。わたしが笑顔になる瞬間。
 青空。
 希美の目の前に、澄み切った青空が広がっていた。秋から冬に変わるこの季節。空気が透明で、空の青は一層鮮やかになる。
 太陽に照らされて輝く雲のように、笑顔になる希美。
 この世界は好きなんだけどな……。
 背後がまた騒がしくなった。希美が振り返って見てみると、顔を真っ赤にした男女がいた。男が女になにかを喋っている。どうやら周りの生徒にせき立てられ、告白させられているようだ。
 ……くだらない。
 あからさまに不快を顔に出してから、希美は視線を景色に戻した。
 教室での騒ぎなどまるで気にせず、世界は回る。雲は雄大な流れで進んでいく。
 世界は綺麗で素晴らしいのに、なぜ人間はこんなにも醜いのか。希美が以前から抱いている疑問だ。人間は醜い。だから嫌いだった。
 あ、もしかして……。
 希美は気づいた。自分は人間が好きではない。それ故に、殺人事件を好むのではないか、と。
 現実では嫌いな人間を殺せないから、小説の中で人が死ぬのを見る。現実で起きる殺人事件に吐き気をもよおすのは、被害者に同情しているからではない。事件の犯人を嘆いているからだ。いくら醜い人間を殺したくても、自分が醜くなっては意味がない。
 殺人衝動がある。しかし現実ではそれが叶わないから、小説の中で満たす。
 つまりはそういうことのようだった。自分の考えに、希美はようやく気づいた。
 そっか。本当は、わたしは人を殺したいんだ。でも自分もその人間と同じになりたくないから、自制してるだけなんだ。
 希美が口元を歪めた時、チャイムが鳴って休み時間が終わった。

 2
 帰りのホームルームが終わると同時、希美は教室を出た。クラスに残っていてもなにもない。廊下を足早に進んでいく。
 目的地は図書室。普段、希美は図書室を利用しないが、本日は違った。読みたい本があるのだ。それは古いものなので本屋よりも図書室にあると踏み、そこに向かっているのだ。
 四階にある図書室の扉を開け、中に入る、授業が終わったばかりなので、人はほとんどいない。カウンターにいる女性と、本を物色している二、三人だ。
 文庫のコーナーは……。
 辺りを見渡し、文庫コーナーを発見。近寄り、本棚を端から眺めていく。本は作家順に並べられているようだ。
「あ……あ……」
 希美が探している本の作家名はあ行。すぐに見つけることができた。その人物の多くの作品が並列している。
「……あれ?」
 順番に確認していったが、希美が望んでいた本はなかった。もう一度見直してみる。やはりない。
 おかしいなぁ……。
 希美は首を傾げた。目当ての作品はその作家の代表作だ。これだけその人物の本があるというのに、代表作がないなんて不自然だった。
 誰か借りてるんだ。
 思い至った。そう考えれば、並んでいる本と本の間にあるわずかな隙間にも納得できる。
 ……どうしよう?
 新装版の興奮覚めやらぬうちに読みたかったのだが、ないなら仕方がない。希美は退室することにした。
 古本屋にでも行ってみようかな。
 そんなことを思案しながら、扉を開いた。廊下を進んでいく。
 反対側から男子生徒が歩いてきた。本を小脇に抱えているので、図書室に向かうのだろう。
 すれ違う瞬間、希美はなにげなくその本を一瞥。目を見開いた。
 ……え? あれは……。
 そんな彼女をまったく意に介さず、青年は歩いていく。もう少しで図書室に入ってしまう。
「ま、待って……!」
 とっさに希美は叫んでいた。声が結構響いてしまったことに気づき、すぐに顔を伏せる。
 青年が振り返った気配がした。
「なに?」
 青年の言葉に、希美はビクッと小さく跳ねた。上目遣いで彼を見る。
 爽やかな青年だった。短めの黒髪、長身が活発な雰囲気を醸し出し、およそ本を読むようには見えない。しかし彼が持っているのは本だった。しかも、希美が読みたかったあの本だ。
「えと……なにか用かな?」
 希美が目をパチクリしていると、青年が問うた。またビクッっと反応する希美。
「あ、あの……その本」
「ん?」
 希美の指差した方向に視線を移し、青年は本を掲げた。思った通り、それは希美が探していた本だった。
「この本がどうかしたの?」
 口で言うよりも、希美は態度で示すことにした。鞄から、先程読み終わったばかりの本を取り出す。
「あ」
 出てきた本を見て、青年は驚いたように口を開けた。何故なら、彼女の持っていた本が、自分の借りたものと同じタイトルだったからだ。
「同じ……じゃない?」
 二冊の本を見比べ、青年は首を傾げた。
 そこでやっと希美は口を開く。
「これは新装版で……そっちは初版のやつ」
「え? あ、そうなんだ……」
 まだ希美の意図が読めず、青年は首を曲げたままだ。希美は急いで言葉をつけ足す。
「それで……あの……新装版読み終わったから、古い方も読みたくなって……」
「ああ、そういうことね」
 青年はにこやかに微笑むと、自身の持つ本を差し出した。
「え……あの……」
 青年が自分の意思を正しく理解してくれて嬉しかったが、感謝することができない希美。困惑しているのだ。今の自分の気持ちがよくわからない。
 な……なんで? なんで……。
 胸を軽く押さえた。
 なんでこんなにドキドキしてるんだろ?
 希美の心臓は早鐘のように鳴っていた。顔も少し熱い。
 この気持ちは? ワクワクしてるような……喜んでるような……。
「あれ? 俺の持つ初版が欲しかったのかと思ったんだけど……違ったかな?」
 ……初めて経験する気持ち……。
「あのー?」
「…………」
「あの!」
「は、はいっ?」
 すぐ目の前に青年の顔があった。
 真っ赤になる顔。それを自覚し、さらに朱色になる。
「え……あの……その……」
 慌てふためく希美の前に本が現れた。青年が差し出した物だ。
「はい、これ。読みたかったんでしょ? 貸してあげるよ。締切まではまだあるから」
 ポンと希美の手に本を乗せた。
「あ、それとも自分で借りる? その方がいいよね。期限明日までだし」
 本を再び回収し、図書室に向かう青年。そのブレザーの裾を、希美が掴んだ。
「そ、そのままでいいよ。すぐに読んで明日返すから……」
 わたしはなんでこんなこと言ってるんだろ? 彼が言ってくれた方法の方がいいのに……。
「そう? じゃあ貸しとくよ。明日俺に返してくれ。俺、君の隣のクラスだから」
 もう一度青年は希美の手に本を置いた。
「あ、ありがと……ってあれ?」
 目をパチクリする希美。
「わ、わたしのこと知ってるの?」
 立ち去ろうとしていた青年は、バツが悪そうに振り返った。
「……あ、うん、知ってるよ。一城希美さんでしょ?」
「そうだよ……あ」
 明るかった希美の表情が、途端暗くなる。
 そうだよね。わたしを知ってても不思議じゃないよ。わたしは……。
「どうしたの?」
 急に沈痛な面持ちになった希美を心配する青年。希美の肩を掴むため、とっさに手を伸ばす。
 その手を、希美は優しくどかした。
「わたしは有名だもんね。みんなから気味悪がられてるし……」
 本ばかり読んで人と話さない。希美は変人とみなされていた。クラスだけでなく、学年でもそれは知れ渡っている。
 ……この人もきっとそう。本心ではわたしを変な人だと思ってるに決まってる。
 本を胸に抱き、希美は歩き出した。その足取りはなんとも重い。
 どうして? わたしはそんなの気にしてなかったはずなのに?
 人に嫌われるのは慣れているはずだった。しかし、何故か、何故だか青年に嫌われるのは胸が苦しかった。
「違うよ」
 青年の言葉。希美は振り返る。
「違うんだ。別にそれで一城さんを知ってたわけじゃない」
「え?」
 青年は少し気まずそうに頬をかいた。
「その……一城さんはよく学校近くの本屋にいるよね。しょっちゅう見かけてて……。それで気になって、クラスのやつに訊いたんだ。一城希美さんって名前はそこで知った。なんか……ごめん。気持ち悪いよね」
 俯く青年。
 沈黙が生まれた。
「…………」
 わたしのことが気になった? 気味悪がる以外の理由で?
 見開いた目で、しばらく希美は青年を見続けた。
 静寂を破ったのは、意外にも希美の声だった。
「あの……あなたの……」
「……え?」
 青年は顔を上げた。目の前には希美の顔があった。いつも彼女がしているような無表情ではない。控え目な、しかし笑顔だ。
「あなたの……名前は?」
 少しの間、青年は呆然と希美を見つめていたが、やがて笑みを作る。
「えと……俺は天間望(てんまのぞむ)って言います。よろしく」
 恥ずかしそうに青年、天間望は手を差し出した。
「……う、うん。……よろしく」
 おどおどした様子で望と握手をする希美。彼女は気づかなかった。その時の自分の顔が、真っ赤になっていることに。
 これが一城希美と天間望の出会いだった。

 3
 それから、二人はよく一緒にいた。学校の休み時間、読んだ本の感想を言い合うのがもっぱらの日課だった。
 時には二人で出かけたりもした。学校近くの本屋に始まり、駅前の図書館、たまに喫茶店などにも行った。
 本という物を介して、二人はどんどん親密になっていった。
 次第に周りの希美を見る目も変わってくる。普通の女子高生のようにしている希美を見て、気持ち悪いと言う生徒などいなかった。むしろ、クラスでも人気の高かった天間望との交流は、一部の女子に羨まれた。
 最近の二人はさらに進展していた。毎日のように一緒に帰っている。
 そして今日も。
 放課後。温かい日差しの中を、希美と望が並んで歩いている。
「昨日ね、電車に乗ってたの。そしたらね、わたし達がこの前読み終わったばかりの本を読んでる人がいたんだ。すごい偶然だよね」
 望と過ごすうちに、希美はよく話すようになっていた。学校では相変わらず無口だが、望の前では饒舌になる。そのことに、本人はあまり気づいていなかった。
「あんな古い本、読んでる人いるんだ」
 望はわずかに眉を押し上げた。
「そう、驚きだよ」
「あの話おもしろいもんね」
「うんうん。特に最後の……」
「ああ、あそこな。あそこはさ……」
 微笑み合う希美と望。今の時間が本当に楽しいと、二人の態度が物語っていた。
 朱に染まる空が二人を包む。寄り添う影がアスファルトに長く伸びている。
 しばらく無言で歩く二人。次第に距離が近づいていき、互いの指先が触れた。
 一瞬だけ顔を見合わせてから、視線をすぐに逸らす。少したってから同じタイミングでチラ見。再び目が合ったので、これまた横を向く。
 そんなことをしている間に、二人がいつも別れている地点にさしかかった。
 あ~あ、もうお別れか……。
 少し肩を落とす希美。
「えと……じゃあね」
 頬を染めつつ、希美は控え目に手を振った。
「…………」
 普段なら望も手を振り返すところなのだが、今回は違った。神妙な顔で希美を見つめている。
「……どうしたの?」
 不審に思い希美が尋ねると、望はためらいつつも口を開いた。
「……実はさ、俺、最近小説を書いてるんだ」
 そっぽを向く望。どうやら視線を合わせたくないようだ。
「え? そうなの?」
「……うん、ほんと。毎日小説を読んでたらさ、書きたくなったんだ。すでにもう書いてて、あとちょっとで完成しそう」
 恥ずかしそうに頭をかく望の前に、希美が回り込んだ。
「すごい! すごいよ! 望君、作家だね!」
「……いや、そんな大したものじゃないよ。作家の真似事してるだけだって」
 望は肩をすくめた。
「ううん、すごいよ。わたしも何度か書こうと思ったけど、すぐに挫折しちゃったから。とにかくすごいよ」
 希美はキラキラと瞬く瞳を望に向けた。それには羨望と尊敬が含まれていた。
「……そ、そうかな?」
 やっと望は希美と向かい合った。それに合わせて頷く希美。
「うん、そうだよ。だから、完成したら絶対わたしに見せてね?」
「やっぱりこうなったか。希美ちゃんはたくさん小説を読んでるからな。厳しい意見をくれそうだ」
「多分そうだろうね」
 希美の返答に、望は苦笑するのだった。
「ま、あと何日かしたら完成だから、その時見せるよ」
「わかった、楽しみにしてるね」
 希美は笑顔を溢れさせた。あまり変化のない彼女の表情の中で、それは一番の笑みだった。
「……えとさ、お手柔らかに……ね?」
 望はもう一度苦笑した。それから希美と視線を交わし、笑った。
 しばし笑い合う二人。空がオレンジから紫に変わり始めるまで、ずっと話をしていた。

 家までの道を一人で歩く希美。彼女の頭の中は望のことでいっぱいだった。
 やっぱり……ドキドキが大きくなってる……。
 望に会ったあの日以来、希美は胸が日に日に高鳴っていくのを感じていた。最近では自分の心音が聞こえるほどだ。
 ほんとになんなんだろう、この気持ち?
 夜空と言えるほど暗くなった空を見上げてみる。もちろんそこに希美が求める答えは記されていなかった。
 自分の気持ちが読めないなんて……不思議。
 クスッと笑う。
 でも、いつかわかるよね。もっと望君と一緒にいたら、きっとわかる。
 スキップしてしまいそうな気分だった。
 望君の書いた作品、どんなのかな? 推理小説が好きだから、やっぱり推理かな? それともホラー? まさかの恋愛もの?
 考えれば考えるほどワクワクした。
 ふと、希美は振り返る。もうとっくに見えなくなった望を求めるように、遠くを眺めた。
 しばしそうしてから、希美は家路についた。

 4
 それから少し経って、望の小説が完成した。できあがった作品を読むため、希美は望の家を訪れた。
 ……き、緊張する……。
 なんの変哲もない一軒家を前に、硬直する希美。
 と、家のドアが開かれた。
「さ、希美ちゃん、入って入って」
 中から出てきたのは望だ。小説ができて嬉しいのか、興奮している。
「お、おじゃましまーす……」
 小さく頭を下げてから、希美は家に足を踏み入れた。望の部屋へと向かう。そのドア前でも緊張したが、望に後押しされ、中に入った。
「さっそくだけど、読んで欲しい」
 希美の前に原稿が置かれた。原稿用紙四十枚くらいだ。室内を眺めるのもそれなりに、希美は読み始める。
 あれ……?
 開始してすぐ、眉を寄せた。登場人物が『希(のぞむ)』、『望美(のぞみ)』と、自分達に似ていたからだ。
 チラリと望を窺うと、彼は最近一緒に買った本を読んでいた。話しかけられる雰囲気ではない。
 仕方なく読み進む。
 またも眉を寄せる。シチュエーションも今の自分達にそっくりだったからだ。
「…………」
 しかしやはり望に話しかけることはできず、とにかく最後まで読むことにした。
 物語が進むにつれ、希美の表情はどんどん険しくなっていく。そして、読み終わるころには、怒りの形相になっていた。
「望君っ! ちょっとこれどういうことっ!」
 立ち上がる希美。望の本を取り上げた。
「……どういうことって?」
 望は冷めた目をしている。
「なんなのこれっ? わたしが望君を殺すなんてっ……!」
 望の書いた作品の中で、希美にそっくりの人物が望そっくりの人物を殺していた。その理由は、希美そっくりの人物が殺人小説を読み過ぎて、実際に人を殺したくなったというものだった。
「こんなのひどい……ひどいよっ!」
 希美は原稿を投げた。望に当たった原稿が、床の上にバラバラと落ちた。
「ひどい? どうして? 俺は最初からこういう作品を書きたくて君に近づいたんだよ?」
「…………え?」
 心臓がドクンと跳ねた。
「本屋で君を見かけた時、君はいつも推理小説や殺人事件ものを見ていた。それを眺めてるうちに、俺は閃いた。殺人事件が好きな女が本当に殺人を犯してしまうというストーリーをね」
 望は笑顔だった。しかし、それは今まで希美が見たことのないものだった。
「だから君に近づいたんだ。インスピレーションを君から得るために、小説のリアリティを出すために」
「…………け?」
 希美の口から漏れた言葉は、あまりに小さい。
「え?」
 望が身を乗り出した。希美は震える唇をもう一度動かす。
「……それだけ? わたしに近づいたのはそのためだけ……?」
「ああ、そのためだけ」
 望は即答した。絶句する希美に向け、さらなる言葉を吐く。
「それ以外に君といる理由はないよ。君みたいな陰気なやつとね」
「…………」
 絶句だった。希美はなにも口にすることができず、息もできず、黙した。
 希美の胸を埋めたのは、怒りでも悲しみでもなく、虚無感だった。
「どうだい? なかなかのできだろ? ぜひ、殺人小説ばっかり読んでる君に、感想を聞きたいね」
 望は、青い顔をしている希美の肩を叩いた。その口元には今まで希美が見たことのない笑みが浮かんでいた。
 ……ううん。
 原稿用紙の散らばる床を凝視しながら、希美はわずかだけ首を振った。
 きっとわたしが気づいていなかっただけ。彼はいつもこんな顔をしてたんだ。
 望を一瞥した。彼は相変わらず口元を歪めている。
 バカだな、わたし。舞い上がってて全然気づけなかった。
 もう一度、望を見つめる。その視界が歪んだ。
「もっと……」
 そう動く唇は震えていた。
「もっと……仲良くなりたかった……」
「そうかい。俺は仲良くなる気なんてさらさらなかったけどな」
 あきれたように肩をすくめる望に構わず、希美は言葉を紡ぐ。
「もっと仲良くなって……」
 望の瞳をまっすぐに見つめた。
「もっと仲良くなってから……殺したかったのに」
「…………え?」
 静寂。
 一拍置いて、望は聞き返す。
「今……なんて?」
 希美は一歩踏み出した。
「だから、もっと仲良くなってからあなたを殺したかったなって。だってその方が興奮しそうじゃない? ゾクゾクしそうじゃない?」
 笑った。希美は笑った。先程の望より凄絶で凄惨な笑みを浮かべて。
 希美が笑っている間、望はなにもできなかった。変貌した希美を、ただただ眺めることしかできなかった。
「もう、計画が台無しだな~。雰囲気ぶち壊しだよ。抱き合ったりした時に刺そうと思ったのに。これで」
 そう言って希美が服のポケットから取り出したのはナイフだった。小振りだが、その刃は人一人を殺すには十分過ぎる鋭さだった。
「ま、いいや。人を殺せれば」
 呟く希美の顔が、歪んだ顔が刃に映った。
「…………」
 望は思わず後ろにさがった。すぐに壁に背がつく。
「……それじゃあ、死んで?」
 希美は望と一気に距離を詰めた。そして、その刃を彼の胸に突き立てた。
 呻き声を上げ、ガクガクと震え、望は倒れた。胸から溢れ出した血が、床の原稿用紙を真っ赤に染めていく。
「あは……あはは……あはははははははははは!」
 血の大地に立ちながら、希美は狂ったように笑った。

 5
 『血の大地に立ちながら、希美は狂ったように笑った。』。
 その小説を終わりまで読んだ『希(のぞむ)』は、極限まで顔を歪めた。見開いた目を、その小説の作者、『望美(のぞみ)』に向ける。
「こ……これ……どういうこと?」
 望美が書いた小説の内容を思い出し、希は体を震わせる。
 その小説には、『望(のぞむ)』と『希美(のぞみ)』という男女が出ていた。二人は名前、性格から明らかに希と望美をモデルにしてできていた。作中で希美が望を殺し、その物語は終わる。
「……どういうことなんだよ?」
 嫌な汗を背に感じつつ、希は今一度尋ねた。首を傾げる望美。
「どういうこと? そういうことだよ。わたしは殺人小説が好き。だから小説の中で人を殺したいと思った。そのモデルに君を選んだ。ただそれだけ」
 普段より口数の多い望美。彼女は興奮していた。自分の計画した殺人が完遂されたという感動が、胸を埋めていく。
 ……あれ?
 しかし、まだなにかが足りなかった。望美は胸を押さえ、怪訝な表情になる。
「……ひどいよ、望美ちゃん。俺は……俺は君が好きだったのに……」
 希の言葉が、望美の心を揺さぶる。
 ……なに? なんでこんなにドキドキしてるの?
 胸に当てている掌に、心臓がドカドカとぶつかる。
「俺はこの小説のことを嘆いてるわけじゃないんだ。望美ちゃんが俺のことをなんとも思ってなかったっていうのが……悲しいんだ……」
 希の頬を伝う光の粒。望美の心臓がさらに暴れた。
 なに? なんなの?
 肋骨を突き破るほどの鼓動。望美の混乱が加速した。
 そんな様子など知るよしもない希は、ひたすらに心の吐露を続ける。
「一目惚れだったんだ。初めて君を見た時から、ずっと君が好きだった。だから本屋にもよく通った。君がいつも読んでる推理小説を読むために図書室にも行った。全部……全部君と繋がりを持つためにやったことだ。君と仲良くなれるようにっ!」
 叫ぶ希。その両目から涙がこぼれた。
 涙も鼻水もグチャグチャになった希の顔を見て、望美の中に生まれる想い。
 ……ああ、そうか。
 望美はまっすぐに希を見た。
 だから……だからこんなに胸がドキドキしたんだ。やっとわかった。
 穏やかな笑みを浮かべる。
 わたしは希くんのこと……。
「希くん……あの……ごめんね」
 希が俯けていた顔を上げた。涙で濡れた瞳には、期待が込められている。
「……望美ちゃん?」
 途端、黙り込む望美。希は少しだけ望美に近寄った。
「……わたし……わたしね……」
 望美は上目遣いに希を窺う。
「うん……なに?」
 さらに希は距離を詰めた。望美と息が触れ合う。
「わたしね……希くんのこと……」
 ずぶり。
 腹に感じた違和感。希が自らの腹に視線を送ると、そこは血に塗れていた。突き立った銀の刃を中心に、血が広がっていく。
「のぞ……み……ちゃん……?」
 膝から崩れ落ちる希。出血したところを押さえながら、望美を見上げる。
 望美は笑っていた。口を裂けんばかりに曲げ、笑っていた。
 その手は、先刻までナイフを握っていた手は、真っ赤に染まっている。
「ごめんね、希くん。わたし、やっとわかったの。わたしは小説の中じゃなくて、現実で人を殺したかったんだってね。殺人小説が好きだったのは、人を殺したいのにできないもどかしさの表れだったんだよ」
 希は一度大きく目を見開いてから、倒れた。床に落ちていた原稿を血に染め、その中に埋もれた。
「……あは……あははははははははははははははははははははは!」
 望美は笑い声を上げた。
 目の前に広がる赤い光景。
 胸を満たす快感。
 これだよ。これが欲しかったんだよっ!
 甲高い笑い声は、その後しばらく続いた。

おわり

『上下』(小説)

 1
 よし。なかなかのできだ。
 教室で英語の小テストを受けながら、上田昇(うえだのぼる)はほくそえんだ。
 早々に解答欄を埋めたので、教室内に視線をさまよわせる。まず一番前の席に座る男を見た。池本誠(いけもとまこと)。クラス一秀才と名高い男だ。実際、テストではいつもトップを譲らない。端整な顔をしているため、女子からの人気も高い。
 裏返した答案の上に肘をつきながら、池本は外を眺めていた。その姿は嫌になるほど様になっている。
 ……今に見てろ、池本。
 上田は憎々しげに目を細めた。それから、今度は一番後ろの席に目を移す。
 頭を抱えている男がいた。険しい顔を見る限り、テストのできが悪いのは明らかだ。おそらく答案用紙の半分も埋まっていないだろう。
 相変わらずだな、下平(しもひら)。
 下平学(まなぶ)は劣等生だ。今までのテストでは毎回ビリか、よくて下から二番目だった。そして現在は、例外なく毎度ビリだ。
 原因は、これまでビリを争ってきた生徒が、急に成績を伸ばしたことにある。
 下平、俺はもうおまえと違うんだ。
 その生徒こそ上田昇だ。彼の成績はある日を境にうなぎ登りになっている。今やクラス内でも上位だ。
 きっかけは、中間テストでいつもよりいい点数を取ったことだった。テスト前日、何故か寝つけず、柄にもなく勉強した結果だ。普段は五十点以下しか取れなかったが、その時は七十点だった。
 やればできるもんだな。
 返されたテストを見て、上田が抱いた感想はその程度のものだった。
 その日の晩、あんな夢を見るまでは。

 2
 普段通りの生活。家族三人で晩飯を食べ、自分の部屋へ。勉強なんてするはずもなく、適当にマンガを読んだり、パソコンをいじったりした。
 夜も更けると就寝。二段ベッドの上に潜り込む。兄が使っていた場所だが、彼は一人暮らしをしているので今は空いている。最近はもっぱら上で寝るのが習慣となっていた。
 なんかつまんねぇな……。
 白い天井を眺めながら、上田はそんなことを考えた。
 ただ学校に行くだけの人生。一人でいることを好む上田には、仲の良い友達もいない。趣味もこれといってない。必然、部活などにも入っていない。
 なにも刺激のない世界。
 上田はうんざりしていた。
 世界を嘆きつつ眠る。これもいつも繰り返されることだった。

 夢を見た。あまり夢を見ない上田にとっては珍しい経験だ。
 以前に見た夢などひどいものだった。上田の目の前に高い高いビルがあり、その上にクラスメイト達がいて上田を見下ろしているというものだ。全員の目が冷徹で、上田を不快にさせた。隣に下平が立っていたのが印象に残っている。
 今回の夢は、シチュエーションはそれに似ていたが、内容が違っていた。
 ビルはある。しかし、上田の位置は下ではなく、ビルの中だった。窓から顔をのぞかせると、真ん中あたりだということがわかる。
 あれは……?
 目を凝らすと屋上に人が立っているのが確認できた。クラスメイトで男だということはわかる。男子の制服を来ているだからだ。
 よく見えねぇ……。
 上を見ることをあきらめ、下方に目を凝らす。上田のいる位置は真ん中より下らしく、よく見えた。
「……下平じゃねぇか」
 黒い大地の上に、下平学の姿があった。羨ましそうに、空を見上げている。
 階下の窓からひょっこりと首が出てきた。クラスの誰かだ。顔は見たことあるが、名前は思い出せない。
 その隣、上、下の部屋からも顔が出てきた。みんな見知った顔だ。
 出てきた顔ぶれには接点があった。それに上田は気づく。
 みんなテストの成績が低い。上田と似たり寄ったりの点数を取るやつらだ。
 彼らは一様に上方に目を向けていた。下平と同じように、羨望や憧憬が含まれた双眸をしている。
 その異様な景色を見て、上田の中にある感覚が生まれた。
 いい気分だな……。
 胸につっかえていたものが外れたようだった。見下ろした先に人がいるというものは、なんとも気分が良い。
「……はは。そうかよ」
 自然と笑っていた。口の端から笑い声が漏れていた。
 こんなに気分がいいものなのかよ。人を見下すっていうことは。
 飽きなかった。羨ましそうに自分を見てくるクラスメイト。その光景を眺めることに。
 特に上田を楽しませたのは、下平の反応だ。彼は上を一瞥しては悲しそうに目を伏せる。
 ゾクゾクした。快感だった。
 ずっと高みにいたいな。
 そう思った。人を軽蔑できる位置にいたいと願った。
「…………」
 不意に視線を感じた。上方からだ。上田は振り返る。
 ビルの側面からいくつもの首が生えていた。全員が笑顔だ。今まさに上田が下平にしたような、侮蔑のこもった眼差しをしている。
「なに笑ってんだこらぁっ!」
 とっさに上田は怒鳴っていた。自分がバカにされていると、一瞬で見抜いたからだ。
 怒声はビルの壁面を滑って進み、真っ黒い空に溶けていった。クラスメイト達の表情は変わらない。相変わらず嘲笑していた。
 ……っくそがっ!
 上田は胸中で吐き捨てた。自分が見下されるのはなんとも気分が悪い。自身のことを完全に棚に上げ、上田は憤慨した。
 そうかよ。てめぇらは俺をバカにしてたのか。
 学校内、素行の悪い上田には誰も近寄らない。それは自分を恐れているからだと、上田は思っていた。しかしどうやら違うようだ。彼らは〈バカなやつだな〉と上田を笑っていたのだ。
 半殺しにしてやろうか?
 上田は彼らを睨む。顔を覚えておき、学校で復讐してやろうと考えた。
 ひとりひとりに鋭い眼光を浴びせていく。やがて、一番上の男と視線があった。はっきりとはわからないが、目が合ったような気がしたのだ。
 続けて、男の唇が微かに動いた気配。
「ば・か」
「っ!」
 声ははっきりと聞こえた。そしてその声は紛れもなく、クラス一の秀才、池本誠のものだった。

「このやろうっ!」
 目覚めと同時に上田は叫んでいた。勢い余って天井に頭をぶつけそうになった。

 やっぱり殴ってやろうか。
 登校中、上田は考えていた。自分をバカにしたクラスメイトにどうやって復讐してやろうかと。
 道ゆく生徒達を睨みつけながら歩く。おびえたような表情をして去っていく彼らを目で追いながら、上田は釈然としない顔になった。
 でもあれ夢ん中の話だよな……。
 途端に萎える。きつく握っていた拳をといた。
 夢のことで人を殴るなんて……アホだな。
 はぁ、とため息をついた。
 じゃあどうする? たとえ夢でも、あれはあいつらの本心だろ?
 眉間に皺を寄せる。確かにあれは夢だったが、クラスメイトが考えているのは似たようなことだという予感もあった。
 目まぐるしく表情を変化させる上田を不思議に思い、周囲の生徒達は彼をチラチラと見た。
 視線に気づいた上田は彼らをひと睨み。追っ払った。
「……あ~めんどくせぇ!」
 ムカつく。しかし、どう仕返しするかがわからない。上田はひとまずその考えを放棄した。
 もう一度ため息を吐いてから、歩く速度を上げる。上田の周りには誰もいなくなっていた。

 3
 午前の授業が終わり、最終授業が始まる前。
 ……そもそも、なんであんな夢見たんだろうな?
 結局あの夢のことを考えてしまっていた。朝からずっとそのことばかりだ。
 いつもは夢なんて見ないのに……。
 六時間目の先生が入ってきた。英語の教師で、生徒達の評判はあまりよくない。とにかく小テストが多いのだ。
「まずは前回の授業の復習として小テストをする。全員教科書をしまえ」
 げっ……。
 例外に漏れず、クラスメイト達と同じ反応を上田もした。
 配られる問題用紙と解答用紙。ざっと見た限り、上田にできそうな雰囲気ではなかった。
 終わった……。
「始め」
 開始の合図があってからも、上田のペンは走り出さなかった。
 なんとなく下平を見る。普段通り、こちらもできそうな様子ではない。
 次に池本に視線を移す。彼のペンは解答用紙の上を軽やかに滑っていた。
「こら上田、キョロキョロすんな」
 教員に注意され、上田は舌打ちしながら俯いた。視界に入る問題用紙に、頭を抱える。

 試験終了。隣の生徒と答案を交換し、採点する。上田の点数は三十点中三点。隣のやつは二十点だった。
 こりゃビリだな。
 上田は苦笑するしかなかった。

 その日の夜のことだ。上田は再び夢を見た。世界は同じで、黒い空と大地。真ん中に高いビルがそびえている。
 今回、上田はビルの中にいなかった。黒い地面の上に立ち、ビルを見上げる位置にいる。
 くそ……。またここかよ……。
 上田は辟易とした気分になった。ビルを眺めると、クラスメイトが自分を見下ろしているのだ。不愉快極まりない。
 視線をどんどん上昇させていく。屋上にはやはり男が立っていた。おそらく池本だろう。しかし今度は唇の動きどころか、姿すらも認識しづらい。
 見ていてもイライラするだけなので、顔をそらした。
 そういえば、下平はどこだ?
 思い至って、見渡す。すぐに下平を発見できた。なんてことはない。ビルの一階に彼はいた。
 事実を知り、凍りつく上田。下平が一階で、自分は地面。つまり下平の方が上にいるということだ。
 下平は笑った。前夜の夢で上田がしたように、侮蔑を含んだ瞳で。
「……おい。なに見てんだよ? あぁ?」
 許せなかった。クラス一のおちこぼれに、そんな双眸で見つめられることに。
 上田が怒鳴っても、下平は微動だにしなかった。まるでできの悪い彫刻のようだ。
「下平……。てめぇ、覚悟しろよ!」
 上田は駆け出した。一直線にビルの入口に向かう。
「な? 開かねぇ?」
 自動ドアのように見えるそれは、しかしまったく開かなかった。こじあけようとするも、びくともしない。
 拳を突き立てた。手がいかれそうになるだけだった。
 仕方なくビルから離れる。もう一度下平を見た。彼は相変わらず口元に嘲笑を携えている。
「てめぇをそっから引きずり下ろしてやる!」

 夢が終わった。上田は天井に指を突きつけていた。
「……舐めんなよ、下平」
 二段ベッドから飛び降りた。着地の衝撃で、机に積んであったプリント群が落ちる。
「……あ?」
 それらを整理してる時、上田は一枚の紙に目が止まった。
 紙には『3』と、そう書かれている。昨日の小テストだ。
 上田は思い出す。たしか、前にあの夢を見た時もテストの後だった。
「……まさか」
 ある予感が頭をかすめた。
「まさかな……」
 フッと笑ってから、上田は学校に行く準備を開始した。時間はあまりない。

 4
 一応確認してみることにした。朝の考えがまだ気になっているのだ。
 昼休み。上田は下平の机へと向かった。普段窓際に一人でいる上田が動いたことに、クラスメイト達は驚いた。
「おい、下平」
 下平は小さな弁当を摘んでいた。相変わらず陰気なやつだ、と内心上田は思う。
「……なに?」
 顔を上げる下平。昨夜の夢みたいな顔ではなく、無表情だ。
「あのよ、昨日の小テストあったじゃん?」
「……うん」
 上田の言いたいことがわからないらしく、下平は首を傾げる。長い前髪が揺れた。
「おまえあれ何点だった?」
「え?」
 こんな質問が来るとは予想してなかったらしく、下平は目を丸くした。周りの生徒達も同様だ。
「いいから、点数言ってみ?」
 上田に促され、下平は渋々口を開く。
「よ……四点だけど……」
「そうか、じゃ」
 バシッと下平の肩を叩き、上田はその場をあとにした。窓際に戻り、一人おにぎりを頬張る。
 ……やっぱりな。
 上田はニヤリと笑った。
 テストの点数だ。きっとあの夢にはテストの点数が関係してやがるんだ。
 おにぎりを丸飲みし、烏龍茶を流し込む。
 点数の高さによって、あの夢での位置が変わるってわけだ。俺や下平が最下層にいて、池本がトップとなりゃ間違いない。
 上田の頭に、池本やクラスメイトに仕返しする方法が浮かんだ。上田は烏龍茶を一気に飲み干す。
 夢で受けた仕打ちなら、夢でやり返せばいい。
 空になったペットボトルを握り潰し、ゴミ箱に放り投げた。意外に大きな音が鳴った。
 おもしれぇ。俺だってやればできるんだ。
 中間テストの結果を思い浮かべた。あの時は一晩しか勉強しなかったにも関わらず、それなりの点数だった。つまり、やればできるということだ。
 元々上田は頭の悪い方ではない。地元では有名な、この高校に入ったくらいなのだから。
 上田は池本は一瞥した。クラス一の秀才は女子数名と楽しげに会話している。
 最終目標はおまえだ、池本。
 睨みつけてから、目線をずらしていく。
 でもその前に……。
 上田の視線が、下平のところに来て止まった。
 まずはてめぇを蹴落としてやるよ、下平。
 上田は猛禽類のような顔になった。その様子を見ていたクラスメイトの幾人かが、ひっと息を呑んだ。

 勉強でいい成績を残し、クラスメイト達を見下してやるという決意をしてから一週間後。日々勉強した成果を見せる日が到来した。
 英語の小テストだ。
 昨日も勉強したし、余裕だな。
 問題用紙と解答用紙を受け取りながら、上田は不敵に笑った。
 テストが開始される。問題は主に単語、熟語を答えるものだ。多少の英作文もある。
 単語と熟語は覚えるだけでできる。ここ最近英語の授業を真面目に受けてきた上田には簡単だ。だが、英作文となると話は変わってくる。英作文は完全に応用であるため、上田はなかなか苦戦した。
 ……ま、でも真ん中以上は確実だろ。
 上田がまた不敵な笑みをこぼした時、テストが終わった。
 上田の点数は二十二点だった。やはり英作文は少し間違えていたが、それ以外は完ぺきだった。
 こいつは夢が楽しみだな。
 下平をチラッと見てから、上田は外の景色に目を移した。

 上田は想像通りの位置にいた。ビルの中ほどよりわずかに上だ。
「よしっ!」
 思わず上田はガッツポーズしていた。自分の予想が当たっていたことと、下平よりはるか上空にいたことに対するものだ。
 ……いや、こんな位置じゃだめだ。
 首を振る。
 俺の最終目標はあいつだからな。
 見上げた。屋上には、変わらず彼の姿がある。
「はっ、待ってやがれ、池本!」
 彼、池本誠に向けて中指を立てた。
 今の上田の位置からなら池本の姿がよく見える。彼は笑っていた。より鮮明にわかる嘲りの口元。
 くそが……。
 上田のいる階と屋上ではまだまだ距離があった。間にある階には、クラスメイト数名の頭が見える。
 まだまだ頂点には届かねぇか。
 落胆する上田。視線を下に戻した。下平がいる。羨ましそうな眼差しで見上げていた。
 ……でもま、いいか。今回はこの景色を楽しんでおくぜ。
 上田は自分より下の階層にいる生徒達を眺めた。蔑むように、見下すように。
 全員の顔を確認してから、再び下平に目を戻した。彼は以前、憧憬と悲哀を混ぜた顔をしていた。

 覚醒。
 ベッドから飛び降り、上田は拳を握った。
 待ってろよ、池本。次はおまえも見下してやるよ。下平みたいにな。
 知らず知らずのうちに上田は笑っていた。そのことに遅れて気づき、もう一度不敵な笑みをこぼした。

 5
 それからの上田はすごかった。小テストではいつも満点近いスコアを叩き出した。夢の中のビルでも、毎回上位の方を締める成績となる。
「…………」
 しかし、上田の表情は曇っていた。何故なら、いつも池本に勝てないからだ。テストの点数、夢の中での位置。毎回上田よりも上に池本がいる。
 上田は窓の外を眺めた。彼の気持ちを反映するかのように、空は鈍色をしている。
 なんでだ……。なんでいつも池本に勝てないっ?
 そう思うも、上田はとっくにその理由をわかっていた。原因は、単純な英語力の差だ。小テストで毎回出される英作文は応用問題なので、単語や熟語を少し覚えただけでは正答は難しい。いつも上田は英作文で減点しており、池本は正解する。下積みがある池本と、最近真面目に勉学に励み始めた上田、二人の間にある差はそこだった。
 苛立ちに顔を歪める上田。池本を一瞥してから、手元の英単語帳に目を向けた。
 池本、たしかにおまえは頭がいい。だがな……。
 ページをめくる。単語帳に載っている単語や熟語、例文には全て赤線が引いてあった。
 今回は負けないぜ?
 上田は不敵に笑った。
 今日というこの日まで、上田は英語力の底上げを図ってきた。そのため、今回のテストは負ける気がしない。
 今日は期末テストの日だった。
 上田が勝負を挑む教科は英語だ。因縁の対決に、ここで終止符を打つ心構えでいる。
 今夜こそ、てめぇを見下してやるぜ。
 試験官が入ってきた。全員に教材をしまうように促してから、テスト用紙を配る。
 紙を受け取った時、上田は自分の手が震えていることに気づいた。
 武者震いってやつさ。
「それでは、始めて下さい」
 試験官の厳かな声でテストが始まった。
 …………。
 ざっと問題全体を見渡した上田。不敵に笑う。
 用紙に名前を記入し、ペンを走らせていく。澱みない動作。上田はあっという間に解答を終わらせた。
 一つ息を吐き、もう一度テストを見直す。ケアレスミスなどがないように入念にチェックした。
 よし。
 ゆっくりとペンを置いた。
 俺の勝ちだ、池本。
 ライバルの横顔を確認。上田は口元を歪めた。

 テスト結果をこんなに心待ちにしたのは初めてだった。
 一週間後、上田は英語の答案用紙を返却された。
 池本の点数は九十八点。周りの女子達が騒いでいたので、上田は知っている。
 唾を飲み込んだ。祈るような気持ちで、上田はテスト用紙を裏返した。
「…………」
 点数は、百点。つまりは満点だ。
 ぃよしっ!
 ガッツポーズをしたいのを我慢し、上田は自分の席についた。
 勝利宣言をするのはここじゃない。今晩、夢の中でだ。
 ついついニヤけていた。好奇の目を周囲の生徒達に向けられていたことに気づき、上田は笑顔を消す。
 夢が楽しみだ。
 視線から解放されると、上田はまた笑った。

 二段ベッドの上。上田は眠りにつこうとしていた。現在時刻は午後十一時。普段より早い時間だ。
 上田は瞼を閉じる。
 興奮しているので眠れないのかと思いきや、意外にもすぐに眠ることができた。きっと連日の勉強で疲れていたのだろう。
 始まる夢。
 現実世界で眠り、夢世界で上田は目覚めた。
 …………ん?
 視界一面が真っ黒だった。空だ。夢の中にある暗黒の空を、上田は見上げているらしかった。
 硬い感触が背中にある。どうやら寝転がっているようだ。
 〈寝転がってる〉? 〈上になにもない〉?
 鼓動が速くなっていくのを感じた。自分が柄にもなく緊張していることを悟る。
 俺が以前のように地面にいるなら、そこから見上げているなら、必ず視界にビルが入ったはずだ。でも、今はビルが見えない。
 ……ってことはっ!
 上田は跳ねるように起き上がった。急いで辺りを見渡す。
 コンクリートの床が続いていた。そしてそれは途中でなくなっていた。その先には、真っ黒い空が遥か彼方まで広がっている。
「屋上だ……屋上だっ!」
 上田は思わず叫んでいた。声は色のない虚空に吸い込まれる。
「はは……やった。やってやったぜっ!」
 上田は屋上を走り回った。勢い余って屋上のへりから落ちそうになった。
「……危ない危ない」
 端から一歩後退し、深呼吸。気持ちを落ち着かせる。
 ここからが本番だ。
 ニヤリと笑った。口元を歪めたまま、今一度屋上のふちまで歩いていく。
 一呼吸置いて、下を一気に見下ろした。
 「っ……!」
 息を呑む。しばし呼吸ができないくらいに。
 す……すげぇ……。
 壮観だった。クラスメイト全員が自分より下にいる。自分を見上げている。
 全身が麻痺したように震えた。快感という言葉を、上田は初めて知った。
 窓から顔をのぞかせ、上を、つまり、上田を見ているクラスメイト。全員の瞳に羨望と憧憬、悲しみが含まれていた。
 彼らは、まるでビルという鉄の塊から生えている、植物のようだ。生首の大草原。その光景に、上田は恐怖すら感じていた。
 しかし、震えていた口は、段々一つの形をとり始める。口角がつり上がり、その表情となる。
 笑顔。
 爽やかな、にこやかな、明るい笑顔ではない。嘲るような、蔑むような、歪んだ笑顔だ。
「……はっ! バカどもがっ!」
 上田は咆哮していた。一番近い位置に生えている池本から、床に立っているであろう下平にも聞こえるように大声で。
「てめぇら、俺を散々馬鹿にしやがって! てめぇらの方がよっぽど馬鹿なんだよ!」
 上田は今まで気にしていないつもりだった。自分が影で蔑まれていることや、馬鹿にされていることなどを。
 しかし、実際は気にしていた。苛立っていた。その想いが、今言葉となって吐き出されているのだ。
「池本! 俺はおまえさえ下に見る存在だ! 俺はこのクラスの頂点だ!」
 抑圧されてきた気持ち。溢れ出る。
「俺はおまえ達の王だっ! もう俺を軽蔑することはできないぞっ!」
 一通り騒ぎ散らすと、今度は笑い出した。
 轟音のような声は、真っ黒い世界を震わせる。
 上田は破顔しながら、屋上の端ギリギリまで向かった。下平の姿を確認しようと、見下ろす。
 くそ……。よく見えないな。
 屋上からでは、床にいる下平をはっきりとは確認できなかった。
 あいつを一番馬鹿にしたかったのにな……。
 目を細める。まだ見えない。下平がどんな表情をしているかわからなかった。
 めんどくせぇ……。
 上田はしゃがんだ。それでも見えない。仕方ないので、声を張り上げることにした。言葉によって下平を軽蔑するつもりなのだ。
「下平っ! てめぇはなぁ、クラスで一番……いや、世界で一番の……」
 クズなんだよっ!
 そう叫ぼうと、身をわずかに乗り出した時だった。
 上田は体勢を崩した。前に倒れていく。真っ黒い世界に飛び込んでいく。
 落下。
 落下していた。
 まるでスローモーションのように、ゆっくりと落ちていく。
 落ちていく。
 墜ちていく。
 通り過ぎる、クラスメイト達のいくつもの顔。上田には、彼らが笑っているように見えた。
 てめぇら……笑ってんじゃ……。
 ぐしゃり。
 そんな音がした気がした。
 痛みはなかった。そもそも感覚がなかった。
 体温を感じない。
 視界がはっきりとしない。
 指の一本も動かせない。
 ただ脳が沈黙していく様子だけが、ただ体が壊れていく感覚だけが、鮮明にわかった。
 閉ざされていく。
 全てが閉ざされていく。
 命が消えていく。
 ああ……俺は死ぬんだな……。
 ゆっくりと、しかし確実に死に近づいていく。高い高いビルから落ちるように、意識はまどろむ闇の中へと沈んでいく。
 消え入る寸前。
「上田くん、君は地面に寝転がってるんだ。僕より下にいるんだね」
 下平の声が聞こえた。いや、聴覚は壊れているので、上田の勝手な想像か。
 やがて、上田の脳は思考することをやめた。
 完全に溶ける。闇の中へと。闇の中へと。

 6
 夜が明けた。
 ある家の一室。
 上田昇は死んでいた。二段ベッドの上から転落し、首の骨を折って絶命したのだ。
 もう彼が目覚めることはない。
 動くことをやめた上田の双眸は、真っ白い天井を見上げていた。

おわり

『Peaceful Man』(小説)

 1
 男は平和を愛していた。平和な世界を夢見ていた。
 昨今のような偽りの平和ではない。核抑止で均衡を保っている世界など、平和とは程遠い。一部の先進国以外では絶えず紛争が起きているのも嘆くべき事実だ。
 男が平和を愛するのには理由があった。世界から見ればとても小さなことだが、男にとっては日々を生きる原動力になっているものだ。
 幼い時、男は家族をいっぺんに失った。強盗による殺人だった。遊びから帰ってきた幼い男が見たのは、もう冷たくなった家族の姿だった。
 男は絶望した、世界に。平和だと言われているこの国でさえ、人が簡単に殺される。これのどこが平和なのか。
 親戚のいなかった男は孤児院に預けられた。そこで自分と同じような境遇にいる子どもがたくさんいることを知り、さらに今の平和を疑った。
 孤児院での生活は辛かった。家族がいないことはどうしようもなく苦しい。
 ある日、一人で街をぶらぶらしている時に、自分と同い年くらいの少年を見た。父と母と手をつなぎ、楽しそうに笑っている。
 それを目の当たりにした男の胸に、黒いなにかが沸き上がった。憎しみから来る殺意だった。自分はこんなに辛いのに、なぜ少年は笑っているのだ。言い様もない憎悪につき動かされ、男は近くにあった石を拾い、少年に近寄っていった。
 途中、ふと足を止めた。手の力が抜け、石がコロリと落ちた。
 そうか。こうやって殺人が起こるんだ。
 男は憎しみにより殺人が起きていることに気づいた。そして、きっと殺人によりまた殺人が起きるのだと考えた。今の自分のように。
 男は悲しむことをやめた。
 憎しみが憎しみを生むという負の連鎖。それを引き起こしているのはこの世界だとわかったのだ。
 世界を変えなければならない。
 そう判断した男は、それから懸命に努力した。勉強した。
 現在、成長した男は世界のために働ける職業についている。

 2
「お客さん、どの辺で降ろせばいいですか?」
 タクシー運転手の言葉に、男はハッとした。妻のことを考えるのをやめ、運転手に言う。
「ここでいい。ここで降ろしてくれ」
 タクシーが停車し、ドアが開いた。
「ありがとう」
 運転手に感謝して料金を支払ってから、男は雨降る外へと出た。傘を開く。
「お客さん、大丈夫かい? この辺りは治安が悪いですぜ?」
 運転手が心配そうに言った。男は振り返る。
「……大丈夫ですよ」
 男はマスクをしているため、声はくぐもっていた。
「そうかい? お客さん見たところ金持ちそうだから気をつけな」
 そう告げてから、運転手は車を発進させた。
「……はい」
 タクシーが見えなくなるまで、なんとなく眺めていた男。その格好は単なるスーツだが、運転手が言ったように一目で高級だとわかるものだった。右腕には金ぴかの腕時計が輝いている。持っている傘でさえ有名メーカーのマークがついていた。
「さて……」
 男は体の向きを変えた。視線の先には細い路地がある。薄暗く、たしかに安心できるような場所ではなかった。
「……見極めるんだ」
 しかし、男は憶することなく、路地へと足を踏み入れていった。

 3
 薄暗く、汚い路地を進む。ビルの横から飛び出している鉄階段が目に入った。錆びて、今にも壊れそうだ。
 しばらくして、男の前方向から少女が走ってきた。ボロボロの身なりを見る限り、裕福ではないようだ。
 そんな少女を直視できず、男は目を逸らした。少女とぶつからないように、道の脇に寄る。
 だがどういうわけか、少女が男にぶつかった。
「ご、ごめんなさいっ……」
 男に頭を下げ、少女は走り去っていった。
「…………」
 少女の後ろ姿を眺めてから、男は歩みを再開した。どんどん路地の奥に進んでいく。
 次に男の前に現れたのは少年だった。お腹でも痛いのか、腹を押さえてうずくまっている。
「君、大丈夫か?」
 男は少年に近づいた。身をかがめ、顔を覗く。
「……お腹が……急に痛くなって……」
 少年の声は震えていた。男は心配になり、さらに少年に近寄る。
「ちょっとお腹を見せてみなさい」
 男が少年に手を伸ばした。
 その時だ。
「それをよこせっ!」
 唐突に少年が大声を出した。と同時に立ち上がり、男の腕時計を力任せに引っ張った。
 ブチッという音がし、金の時計がちぎれた。少年はそれを掴んだまま、一目散に逃げ出した。
「…………」
 男は少年を追いかけることをしなかった。ただ無表情で少年の小さな背中を眺めている。
 やがて、少年がいなくなると、男は視線を前に戻した。路地を進んでいく。
 雨が激しくなってきた。夜にはまだ遠いというのに、分厚い雲のせいで辺りは暗い。
 そんな空模様と同じように、男の顔も晴れない。
 前方から足音が聞こえた。誰かが走っているようだ。足音はどんどん近づいてくる。
 しばらくして、薄暗い中に人影が映った。青年だ。痩せた青年が男に向かって駆けてくる。
 青年は男の直前で足を止めた。肩で息をしている青年は傘を持っておらず、びしょ濡れだ。傘の代わりに奇妙な物を持っている。
 雨雲と同じ鈍色をしたそれはナイフだった。小さいが、鋭く、人を殺すには十分に見える。
「金を出せ!」
 掠れた声だ。青年はナイフを男に突き出し、叫んだ。
 男は慌てない。ゆっくりと頷くと、ズボンのポケットに手を入れた。おとなしく財布を渡すつもりなのだ。
 しかし、そこで男は停止した。わずかに目を見開いている。
「おい! 早くしろ!」
 青年が痺れをきらして叫ぶ。男はポケットから手を出した。そこにはなにも握られていなかった。
「すまない。どうやらさっき女の子にすられたようだ」
 青年があからさまに舌打ちした。ナイフをさらに近づける。
「だったら金目のもんだ! なんでもいいからよこせ!」
 男は困った。金目の物など、先刻奪われた時計だけしかない。
「……なにも持ってないんだ。あげられるのはこの傘くらいしか……」
 申し訳なさそうに傘を出す男。青年は怒りに顔を赤くした。
「ふざけんじゃねぇっ!」
 青年が踏み出した。その手に握られたナイフが、まっすぐに男の胸に……。
 刺さらなかった。
 どこかから響いた銃声。狭い路地を反響した。
 遅れて倒れる青年。悲鳴さえ上げられなかった。眉間を撃ち抜かれていた。
 雨がシトシトと降る。青年の頭から流れ出る血を広げていった。
 男は持っていた傘を青年の上にかぶせた。青年が濡れないように。
「大丈夫ですかっ?」
 黒いスーツを着た若い男が駆け寄ってきた。ひどく慌てている。手には銃を握っていた。先程発砲したのは彼のようだ。
「勝手に抜け出さないで下さいよ! 探すの苦労したんですから!」
 叫ぶ若い男をまったく意に介さず、男はただ立ち尽くしていた。
「タクシーの運転手からあなたに似た人を見たって連絡がなければ今ごろ……」
 隣で黒服が騒ぐが、途中からその言葉は男の耳には入っていなかった。代わりに聞こえるのは雨音。さっきより一層強くなった雨の音だけだ。
 男の髪から雨水が流れ出す。しずくは男の眉間を通り、鼻のラインに反って垂れていく。
 その様は、まるで男が涙を流しているかのようだった。
 雨がさらに激しくなった。

 4
 黒い高級車が通りを走っていた。窓は防弾使用でスモークがかかっている。
 その車内。男はなにをするでもなく座っていた。
「だいたいあなたは自分の立場を……」
 運転をしながら先程の黒服がなにかを言っているが、相変わらず男の耳には入らない。
 と、男の胸ポケットの携帯が振動した。液晶に映し出された名前を見て、男はわずかだけ表情を変えた。緊張した様子で電話に出る。
「……もしもし?」
『あ、わたくし……ですが、頼まれていた調査の報告を……』
 男はしばらく相手の言葉に耳を傾けた。
「…………そうか、ご苦労だったな」
 報告を聞き、長く沈黙していた男は、重い声でそう言った。携帯を胸ポケットにしまう。
「……どうかなされたんですか?」
 ただならぬ気配を感じ、黒服が尋ねた。バックミラー越しに男を見る。
 男は首を振った。
「大したことではない。妻の不倫調査を探偵に依頼していてな、その不倫が本当だったとわかっただけのことだ」
「えっ?」
 驚愕し、黒服はバックミラー越しではなく直接男を見た。
 男は、話は終わりだとばかり、両目をキツく閉じていた。

 5
 男は自分の職場に帰還した。服を着替え、いつものデスクに腰掛ける。
 その前には眼鏡をかけた女性がいた。男の秘書だ。
「それでは、遅れてしまった予定を説明させていただ……?」
 秘書が話し始めた直後、男は手でそれを制した。
「いや、いい。その前に私の話を聞いてくれ」
「? ……はい」
 小首を傾げつつ秘書が返事をした。男は口を開く。
「私はこの世界が平和になることを望んでいる」
 男は立ち上がり、窓から外を眺めた。連立するビル群が見える。
「存じております。ですから、今の地位におられるわけですね」
 外はもう日が落ちていた。真っ暗だ。
「そうだ。だから私はこの場所まで昇りつめた。なによりも世界を……世界平和を想って!」
 男は叫んだ。振り返り、机を叩く。
「だが! 私がこの地位について働き、もう十年経つ! その間世界は平和になったかっ? いいや変わってない!」
「…………!」
 いつも穏やかな男が怒ったので、秘書は目を見開いた。びっくりして持っていた手帳を落としてしまう。
「だから私は…………にした」
 手帳を拾うのに夢中で、秘書は男の言葉を聞き逃した。
「はい?」
 聞き直すと、男は静かに告げた。
「私はボタンを押す、ということだ」
「……?」
 ちゃんと聞いてみても、秘書は男の言うことを理解しかねた。
 しかし、男が電子ロック式の引きだしからそれを出した時、全てわかった。顔面を蒼白にし、息を呑む。
 机の上に出されたのは小さなボタンだった。赤いスイッチがガラスの蓋に覆われている。
「もうこれしかないのだ、世界が平和になるにはな」
 目を伏せつつ、男は指紋認証によってガラスの蓋を解除した。赤いスイッチがむき出しになった。
「……お……おやめ……下さ」
 秘書は震える唇を必死に動かし、詰まる喉を懸命に開いた。
 その前に男は片手の伸ばす。
「この決定はもう変わらない。世界を平和にするには、『一度世界を滅ぼす』必要があるのだ。我々はゼロからスタートしなければならない」
 男はゆっくりと人差し指を下げていった。赤いスイッチを押し込む。
「おやめ下さい! 『大統領』っ!」
 秘書の懇願も無意味だった。カチリと、空しい音が響いた。
 ここから離れた軍の本部。そこにあった核ミサイルが、この国の敵対国に向けて発射された。
 その一報が男、この国の大統領の耳に入るのには、まだしばらくの時間があった。

おわり
プロフィール
ゆない。と申します。

ゆない。

Author:ゆない。
ゆない。です! 作家を目指してます!

Author:ワキオ
ゆない。と共に作家を目指しています!

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